大友亀太郎は、22歳の時二宮尊徳の門に入り農政事業を学ぶ。
25歳の時、江戸幕府の命で北海道に渡り、道南の現木古内町と七飯町
御手作場(開拓農場)を完成させてます。
慶応2年さらに、蝦夷地開拓を命ぜられ、農家八戸とともに札幌元村の伏古川
の岸辺に入り事業着手したのです。
開拓には農業用水、飲料水、札幌中心部からの物資の輸送に水路が必要でした。
大友堀と呼ばれ、約4㎞の水路を完成させた、現在の札幌市を東西に分けてる
創成川の前身となりました。
大友堀完成後元村には、本州各地から入植者が入り、明治4年には札幌村となる。
札幌村郷土記念館を訪問。
この地は、大友堀の最終地点でもあります。
館長さんから、長時間にわたり詳しく説明を受けることができました。

記念館です。

札幌村と大友亀太郎の関係がわかる。

大友亀太郎宅跡でもあります。
前庭に石像。 この石像は市内創成川たもとの石像と同じだそうです。

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創成川の大友亀太郎石像。 2018,10,24. (リンク)
札幌市の現況図に、大友堀、伏古川の河川は明治初年を想定、
札幌区と各村の境界は明治29年の地図にもとづいている。
下部が大友堀取水口で右上部が大友堀落口。

『大友堀のすがた』
掘削開始 慶応2年6月
開通 慶応2年9月
数カ所の海抜が書かれてます、水路工事には重要ですね。
約4㎞の工事、3ヵ月で完成してる。

別の説明図。
右上が落口地点の当時元村(現元町)

工事に必要な測量器。

大友亀太郎愛用の測量器。
小田原の実家に保存されてるそうです。

大友亀太郎写真です。
慶応時代と思われます、珍しい。 記念館ホームページからお借り。

大友堀できた頃の現在の大道公園付近。
奥は森林地帯、時代の変化を感じます。

明治5年の大友堀、右奥が元村方角。
当時としては大工事だったでしょうね。

開拓当時の小屋掛。
屋根は樹皮のようです、厳寒の北海道冬の生活が想像できます。

大友亀太郎の愛刀。

明治3年に越後から元村に移住した人に餞別として画き贈られた
珍しい北海道地図、水色の部分は海。
かなり正確に書かれてますね、越後に当時北海道を想像できた人が居た事がふしぎ。

今回記念館の館長さんの説明を聞き、以前訪問した東旭川町の旭川神社
と旭川市との開拓関係が、実によく似てる事でした。
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東旭川町に旭川神社 2014,9,24。 (リンク)
郷土記念館には大友亀太郎に関する資料のほか農作業に
関する、自分にとっても懐かしい展示が多くありました。
次回報告します。
- 2018/11/14(水) 08:15:35|
- 札幌
-
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> 開拓には水路が必要だとのこと。
yamashiro94さんコメントありがとうございました。
幕末から明治初期の、現札幌中心部にはすでに開拓使を始め
住宅が建ちはじめました、当時の写真も残されてます。
大友亀太郎は、農地開拓を目的に中心部から離れた札幌村に
入植したと思われます。
中心部からの物資輸送、人の交流、農業用水等から大友堀が
必要だったと考えられます。
歴史探索も楽しいですね、自分も歴史人間年齢ですが(笑)
- 2018/11/15(木) 09:59:43 |
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- N.PIKA #-
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開拓には水路が必要だとのこと。
当時、水運が物資の大量輸送には適していたでしょうね。
「大友堀」の開通は、慶応2年9月と書かれていますが、明治になる前から、このような水路が築かれていたのですね。
初めて知りました。
- 2018/11/14(水) 17:07:54 |
- URL |
- yamashiro94 #-
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