札幌開拓の歴史は、明治期に入り屯田兵を思いうかべますが、江戸時代末期に人跡未踏の地
に幕府の命を受け幕臣大友亀太郎の功績も大きかった事を知りました。
今年で大友亀太郎着任してから、150年にあたり記念の行事が形画されてます。
報道で知り見学して来ました。
記念館は現在の札幌中心地より、北東にかなり離れた位置に有り当時はここが、札幌開拓の
拠点になった所です。
この場所は、当時は大友の邸宅でもあり大友役所の跡地でも有るそうです。
亀太郎は石狩平野を調べ開拓する場所を入念に探し、農業に適した土地で近くに川が流れ
将来交通の便も良いと決断この地にしたそうです、元村(今の元町)を中心に開拓すること
に決めてます。
開拓の発祥の地である、亀太郎宅跡地に歴史を残そうと『札幌村郷土記念館』が昭和52年
に建設されてます。
札幌村郷土記念館です。
慶応2年(明治維新の約2年前)大友亀太郎が幕府の命を受け石狩開拓の拠点とした所
です。

亀太郎は、この地が開拓に必要な農業に適し、近くに川があり将来交通の便も良いと
考えたようです。元村、親村とも言ったそうです。(現在は元町)
親村とは、将来まわりに移住者を増やし小村を多くしたい考えがあった。

今年は亀太郎着任150年目。
慶応3年には、模範農場(当時はお手作場)、用水路(大友堀として有名)道路、橋など
を作り札幌付近の開拓に大きな役割を果たしてます。

亀太郎が開拓の中心と考えた元村、と現在の札幌中心地との位置関係を見てみましょう。
『わが国の玉ねぎ栽培この地にはじまる』の碑
この付近は、大部分が玉ねぎ畑でした、現在は住宅街となった所が多いですが
まだ、玉ねぎ耕作地を多く見かけます。

明治4年米国から種子を輸入、この地で栽培が始まるの説明。

大友亀太郎銅像。

この場所は、亀太郎宅跡でもあり、大友役所跡でもあるそうです。
後に幕府は崩壊しますね、混乱で離散相次ぐところもあったそうですが、元村では
亀太郎を信頼し、開拓に挑み続けたそうです。
明治3年頃になり、新潟県、福井県、山形県等から札幌元村付近に入植開拓が進み
村々をあわせ、札幌村となってます。

大友亀太郎氏です、ガッチリした体格ですね。

開拓で一番重要だったのが、大友堀でした。(現在の創成川)
現在の札幌市中心街の水源から直線で北に向かい、そこから東北に曲がって
今の記念館の裏で、伏古川に合流する堀を作りました。
この大友堀は、後の島判官による札幌の都づくりの東西の基準線にもなり大きな
役割を果たしました。

現在の大友堀(創成川)です。

館内は昔懐かしい農機具展示が主体でした。
ほとんどが、この記念館建設(昭和52年)に当たり付近の農家の倉庫に眠ってた
もので、寄付された物ばかりだそうです。

昔の動力は馬が大活躍の時代、馬が居なければ北海道開拓は進まなかったでしょうね。

私の実家も稲作農家でした、実に懐かしい物ばかり。

高齢の方は、懐かしいタンス。

五右衛門風呂が見えますね、子供の頃入りましたよ。

大きなノコギリが見えます。 重要な道具の一つだったでしょうね。

ランプの数々、ホヤと言ったでしょうか、ガラスのケース。
スス掃除は子供の仕事、手が細くて中に入ります。

当時の小屋作り風景、まだ木工場の無い時代屋根は大木の皮を使ってる
ようですね。
この写真を見て、先人の苦労が想像されますね。
驚きと、感謝と、感動を受けました。

大友亀太郎は、安政6年(明治維新約9年前)に、函館の近く今の七飯町(ななえ)
の開拓も命じられ、田畑100㌶作り、農家を48戸入植させる開拓もしてたのです。
北海道開拓に貢献した方は多くいますが、その中でも大友亀太郎氏は江戸期から
ですから、我々道産子にとって忘れてはいけない人物でしょうね。
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- 2016/10/10(月) 07:29:23|
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