2月8日の過去ログ
前回のブログで紹介した、札幌村神社参拝でまだ札幌市の北端となる所に
苦難の開拓の歴史が有る神社、郷土資料館が有る事を知りました。
この地は、ほぼ石狩市、当別町方面に近く明治初期には石狩川の洪水、湿地帯
と想像されます。
そんな場所に烈々布神社は有りました、 現在は烈々布と言う地名はありませんが
アイヌ語由来だそうです。
明治22年頃、この烈々布地区内は三地区に分かれており(烈々布、北組、中通)
明治26年に烈々布地区に、当時札幌区の三吉神社の分祀を受け社殿を建立、大正
12年現在地に本殿が造営されている。
烈々布神社全景。

石碑

神社の由緒です。
烈々布と言う地名は現在は残ってませんが、かっての丘珠村、札幌村、篠路村の区域
だったそうで広大な地区名だったことが分かります。

常夜燈など、札幌村神社より歴史が感じられます。

貫禄ですね。

先人の苦労に感謝しながら参拝。

烈々布郷土資料館は少し離れた、百合が原公園近くに有りました。
烈々布会館の2階でした。 1階が地区の会館と小学生の学校終了後の青空学校が開かれてました。
烈々布と言う地名が無いのに会館名は烈々布会館、先人の苦労を大切にしてるのが分かりますね。
郷土資料館見学には、隣りに自宅の有るN氏の許可が必要、これが良かった。
N氏は90歳前後の高齢で、実にこの地区の歴史に詳しくしっかりした方、自宅で多くの
話を聞く事ができた。

郷土資料館は、開拓した先人の労苦をしのび、歴史、文化にふれるようにと
地域の人達が作った。 見て分かりますすべて手作りなのが!!!
『篠路烈々布開基百年』碑
この地方に明治14年福岡県人が報国社を組織して、北海道に渡り開墾した時
明治16年にその一部5~6戸が烈々布に入植したのが始まりだそうです。
この文字は元札幌市長板垣武四の書。

2階の資料館は、地元住民の手作りであることが直ぐ分かります。
生活用品、開拓時代からの貴重な写真見ていてあきませんよ。
この資料館が歴代大切にしてるのが『烈々布獅子舞』です。
1〜4代まで有ります。

100年近く歴史がある伝統行事で、現在の北区百合が原に入植した
富山出身者が伝えたそうです。 自宅で説明を受けたN氏の祖先も富山県人だそうです。
頭から尾まで6㍍で、8人の大人がもぐり込んであやつる勇壮なものです。
少し分かりづらいですが、富山県から入植時持って来た第1代の獅子頭です。

生活用品。

生活用品はまだ多く有りました。

写真展示の中に開拓風景が有りました。
大木を倒して畑にしたのでしょうね。

馬廻し動力で脱穀風景、大正12年頃。
初めて見ました、私の実家も旭川近郊で稲作農家昭和20年代でもすべて人力でしたよ。

郷土資料館のお世話をしているN氏にお会い出来たことは本当に
この地区の歴史と苦難の開拓の話を聞く事ができました。
北海道の開拓の歴史は、どこも似た苦労をしてますが烈々布の開拓でも相当数
があきらめた方がいたそうです。
同じ札幌ですが月寒地区の開拓では100戸以上の入植で現在その当時の子孫
が残ってるのが5~6戸だそうです。
それだけ、北海道開拓の夢と現実には開きが大きかったのでしょうね。
道産子として想像が出来ますね。
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- 2015/05/06(水) 11:52:43|
- 札幌
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