明治初期、北方警備、開拓で各地に各藩の陣屋体制が作られてました。 9月17日 過去ログ
登別市には仙台藩片倉家が入植してました、紹介します。
仙台藩陣屋跡へは、国道36号線を登別市幌別から内陸に入った所ですが分かりずらいかも
知れません、最近カーナビが多いですから心配ないでしょうね。
仙台藩伊達家家臣、片倉小十郎は明治2年に移住してます。
伊達家一門につぐ一家という家格でありながら、一国一城令が出された江戸時代にあって
幕末まで白石城主(宮城県)としてその地位を保った名家だったそうです。
仙台藩は戊辰戦争で敗者となりましたね、多くの家臣に帰農をすすめたそうですが、片倉家
の家臣の多くは武士身分を保持したまま北海道に移住できたそうです。
資料館の職員の説明では、幕府の考えは帰農して白石に残って後で反乱でもされるより
武士の身分を保持してでも、遠い北海道に移住させた方が安全と考えたとの説も有るそうです。
宮城県白石市には復元された白石城が有るそうです。
この地から明治初期に厳寒の地北海道に渡ったのですね。
幌別から陣屋に進むと、片倉町の町名が付いてました。
大きな看板案内です。

仙台藩陣屋跡到着です、閉館まで40分しか無い雑な見学に、残念。

資料館です、資料も多く時間が足りない自分の責任ですが。

陣屋跡は広い公園の中に有りました。

白老はアイヌとの関係の深い地域、アイヌ伝統彫刻です。

仙台藩は三好堅物を視察調査させてます、白老が最適と判断この地
の陣屋のスタートですね。 アイヌの協力で視察してる様子でしょうか。

当時同時に白石城から札幌市、現在の白石区にも入植してたのですね。
職員の説明で知りました。現在も地名として残ってます。
陣屋風景です。

本陣の有る風景、他に警備の訓練場が広く有ったそうです。
毎年百数十名の藩兵が駐留し、活気にあふれてたそうですよ。藩兵と地元のアイヌとの
交流は禁じられていたそうで、勤務が一年から後に二年以上と長帰化するようになり
自然と交流が深まったそうです。

展示物は多く説明も親切、しかし今日は時間が足りない。
大砲です。

資料館を出た所。この奥に陣屋跡がある。

公園から資料館。

庭園を歩いてると陣屋跡の案内が。

広い公園、休憩所も用意されてましたよ。

塩竈神社鳥居。 時間無くここから参拝。

参道の燈籠には文久元年が刻まれてました。

本陣跡詰御門です。

橋を渡る。

本陣跡に来ました。
中には本陣、勘定所、穀蔵、兵具庫、井戸も掘られてました。

本陣建物跡。

穀蔵跡。
食料は十分だったのでしょうかね。 兵は四月着任し翌年交替慣れない蝦夷地
の冬は武士たちにはつらい勤務だったでしょうね。

勘定所跡。

井戸跡です。

まだ後にも発掘の杭跡が多く有りましたよ。規模の大きな陣屋だったことが想像できます。
択捉、国後、根室、厚岸にも後には出張陣屋も置かれたそうです。
鎖国から開国の時代、ソ連の南下を想定した警備だったのしょうか。
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- 2014/11/29(土) 11:13:04|
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- 2014/11/30(日) 08:50:21 |
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