三笠市の炭鉱歴史の中で、奔別炭鉱は最後に開鉱の明治30年でした。
それだけに、巨大で最新設備の炭鉱だったそうです。三笠市炭鉱で幌内炭鉱が明治15年、幾春別炭鉱
が明治18年でした。
完成当時は『100年採炭できる』と言われてたが、立坑開発で能率向上で深部化が進み、
暑さを嫌う鉱員が大量に退職、完成後わずか10年で閉山になったそうです。
皮肉なものですね、効率化とコスト低減策が炭鉱の寿命を変えた。
地域を支えた巨大な奔別炭鉱跡です。幾春別炭鉱は主に幾春別川に沿った所ですが
奔別炭鉱は、少し山側に入ります。
知りませんでしたが、奔別炭鉱は住友系で幾春別炭鉱は北炭系だったのですね。

まず目に入ったのが、巨大な立坑櫓でした。
高さ50,5㍍ 立坑内径6,4㍍ 深さ750㍍。 一つの立坑で鉱員、資材、石炭を
並行して昇降させる方式で、当時は東洋一の施設だったそうです。

巨大な立坑です。奔別の文字が残ってますね。

裏側です、巻き上げ部が見えますね。

これも巨大な炭鉱選炭場と貨車積み込みホッパーの有る設備です。
中央に見学用の通路が用意されてました。

ホッパー最下部には、貨車が3列入れます。とにかく大きい。

貨車レールの有った所を歩いてみました。
壁には、アートプロジェクト開催があり炭鉱設備が天幕で隠れてる。
少し残念な気分で歩く。

ホッパーから貨車に積み込まれる出口でしょうか。

3本有る貨車ホームの一本。

長い貨車ホームを歩き反対側に出ました。

選炭場建屋から立坑櫓。

建物内部の上部です、選炭場が有った場所と思います。
この下に貨車積み込みホッパーが有る。 立坑からここまでコンベアーで送られたのでしょうね。

全景です。

幾春別方面集落に成ります。

奔別炭鉱跡地からさらに山側に登った所に小学校跡地が有るとの事で
行ってきました。
森の道路脇に石碑が有りました、殉職者之霊碑と顕徳碑でした。
殉職者の碑は昭和15年に建立。 炭鉱は厳しい環境と事故も多かったでしょうね。

この直ぐ近くが元幾春別小学校跡地でした。
最盛期には、児童数は3600人を越えたそうです。いかに町が繁栄してたか分かりますね。
幾春別川沿いの多くは、炭鉱関係設備で使われ学校用地は無かったそうです。
それで、この高台地区に成ったのですね。 かなりの傾斜と距離でしたよ。
奔別炭鉱が出来てからは、幾春別小学校は北炭系、奔別小学校は住友系の従業員の生徒が
通学に成ったそうです。
小学校跡地です。 今は雑草の地、昔は子供の声が響いてた所ですね。

幾春別神社に寄って見ました。
分かりづらいですが、右側に古い歴史を感じる神社の石碑が有ります。

この階段の上です、キツイ。

炭鉱の歴史を見て来た神社です。

本殿です。 参拝。
最初は別の場所にあったが、明治31年に現在の場所に建てられる、奉納者に北炭社長
も加わっていたことから、地域住民と炭鉱事業の無事を願う神社の意味があったそうです。

帰りに千人塚史跡公園に寄る。 三笠市指定文化財。
明治15年空知集治監が開かれ、道路、農地の開墾、幌内の炭鉱など過酷な労働に
当たったのですね。 北海道の開拓の歴史には各地にそんな場所が多く有ります。
この墓地は集治監開館と同時に作られ、明治29年に土葬されてた965体を集めて
合葬の碑が作られてます。
おおよそ千体の集骨から地元の人は千人塚と呼ぶようになったそうです。

石碑が二つ、一つが合葬の碑。

奇麗に整備管理されてる千人塚です。
先人の苦労に感謝の気持ちが出てるのか。

中央の広場に小高い丘のような設計、塚のイメージから何となく気に
成りながら後にしましたね。

三笠市炭鉱産業遺産を、歩いてみて町の観光の目玉にとの気持ちは伝わって
きましたね。しかし、明治時代の古い設備で外に出てる部分の管理をどうするかですね。
老朽化は進むでしょうし、維持しょうとすれば費用が掛かる。
投資効果が出るだけ、人が集まる方法ですね。
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- 2014/10/24(金) 11:24:19|
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