道の駅あさひかわで、車中泊。 場所が旭川駅裏との情報で夜の駅前平和通でも
散歩と思ってましたが、忠別川を挟み結構な距離、高齢者にはきつい、あきらめて
付近を散歩。
東旭川は旭山動物園で、全国区に成りましたね。
旭川近郊の全体地図に成ります。
私が子供の頃東神楽村に住んでた時は、東旭川村はまだ旭川市に合併前でした。
子供心に東旭川村なのに、神社は旭川神社、学校は旭川○○小学校、旭川○○中学校の名
その不思議には、開拓の歴史が関係してると思い、今回調べてみる事に。
現在の旭川市、東旭川町の旭川神社に『旭川兵村紀念館』が有る、そこへ。
地図にも有りますね、そこは都合良く旭川神社も近くでした。
学校名も旭川名の、学校名が分かりますね。 本当なら旭川に合併前の東旭川で良い。
屯田兵開拓の歴史が関係してました、それも不可思議な。
旭川近郊の開拓は明治23年旭川、神居、永山が開村、25年に神楽村が開村してます。
この時期に屯田兵が入植、開拓、北方警備とこの地区が発展して行きました。
その起点が現在の東旭川の地域で『旭川兵村』と呼ばれてたそうです。
その当時の、現在の旭川市街地は『忠別市街地』としてまだ、まだ発展はしてない。
明治30年に成り、忠別市街地に七師団の移駐で戸口増加、本来の旭川であった『旭川兵村』
を永山に編入し、後から人口増加の有った忠別市街地を『旭川』として独立させたのですね。
この成り行きは、地元の『旭川兵村』は知らぬまに道庁の告示だけだったそうです。
(そうなる、動きが他から有ったそうですが)
当然、『旭川兵村』から猛烈な反対運動が出る。
結果、永山村に無断で編入された『旭川兵村』は再び分離し、旭川に東を付けて東旭川
とし、神社、学校はすべて旭川の名称で呼ばれる歴史になったのですね。
本当は今の東旭川区域が、旭川として発展した可能性もあったのですね。
道産子以外の方には、理解しづらいブログに成ったかも知れません、旭山動物園
の町、東旭川にはこのような歴史も有ったのです。
?十年前から、疑問に思って事が解決しました、自己満足かも知れません。
お許しを。
旭川神社も参拝して来ました。 この神社にはすごい歴史が有った。
国道から入る大鳥居、全道一高い鳥居だそうです。

東旭川開村記念碑。

旭川屯田兵練兵場跡です。 史跡が多く非常に広い敷地でしたよ。

旭川神社鳥居から。
この旭川神社は、伊勢神宮の御分霊である事です。
伊勢神宮の御分霊は一切許されない時代、屯田中隊長菊池氏が、北辺の防衛と北海道開拓の重責を
担って酷寒の地で苦労を重ねてる、屯田兵や家族の実情を説明し、特別に許可された歴史ある
神社なのです。
旭川の冬は、内陸性気候で本当に厳しい環境、屯田兵幹部もそこを考えたのでしょうね。

鳥居の右が社務所、神楽殿もありました。

参道脇の小砂利が、京都の神社、仏閣を思わせる手入れ、スジが奇麗に入ってました。

女性の参拝者が一人。

本殿です。貫禄ですね。

境内に有った『おもかる石』
神社参拝の後、先ず石を持って重さを覚えます、次に石に両手を当てお願い事をする。
次にもう一度石を持ち軽く感じたら叶う、重く感じたら最後に一礼。

境内社、若宮八幡神社。 愛宕神社。
鳥居大正4年建立とありました。

石碑。 石柱に東旭川村の文字。

ヘビ石?? 作ったようには見えませんでした。
自然石?

旭川兵村紀念館石碑。

紀念館全体です、大きいですよ。
ここで、私の長年の疑問が解けましたね。

正面玄関、建物も立派ですが、歴史の引き継ぎを大切にする
気持ちが伝わりましたね。

境内社、 顕勲神社。

練兵場跡でも有りますね、零式艦上戦闘機のプロペラが展示。

加藤の松
加藤建夫『隼』戦闘機の名パイロットの生家の松で、この地に移植したそうです。

神迎えるハルニレ。
明治25年屯田兵の練兵場を開設のため、密林を伐採中このハルニレの根元に熊の
頭蓋骨が4個を発見、アイヌの霊樹と考え残された物です。 樹齢300~400年

根元を見ると風雪に耐え、開拓屯田兵の力を感じます。

この神社にも土俵が有りました、今もお祭りには子供相撲大会有るのでしょうかね。

開拓の時代から、この地が旭川だったと言う写真がありました。
現在の東旭川町に有った小学校です、校門に旭川の名称が見えますね。

歌。 『わが美しき故郷よ』 畠山美由紀。
昔は東神楽村からは、距離はあまり有りませんでしたが、忠別川には
今のように橋が有りませんでした。近くて遠い村でした、東川村もそうですね。
疑問が解けた、故郷散歩でした。
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- 2014/09/24(水) 11:47:32|
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