札幌から駅逓所、古い歴史を訪ねながら旭川に入りました。
旭川市の隣り町の、小さな町東神楽町、私が社会人に成るまで過ごした故郷です。
父、母のお墓参りをし、実家(弟)の所でゆっくりする。
東神楽町は、東西22㎞、南北6㎞ぐらいの、細長い町です、私の実家は旭川市に近い
東聖地区に有ります。 西には旭川市と合併した西神楽、北には忠別川を挟み東川町
西方面に高台が有り、二面に分かれている感じですね。
私は高台で生活、実に大雪連峰、十勝連峰の願望は最高でしたね。
何処を見ても、水田と点々に有る農家の風景でした。
近年故郷に帰省するたび、故郷の変貌に、表現の難しい気持ちに成ってました。
特に、私の東聖地区は、旭川市のベットタウン化、住宅街と大型ショッピング街
に変貌、 救われるのは、まだ私の実家の高台は水田風景が残されてる。
実家から東方向に、旭川空港(管理は旭川市)が有ります、近くにお墓が有り
久し振りに、水田が残る高台地区をドライブ。
昔、東聖小学校の分教場として高台地区の本校から距離の有る所に、聖台分教場が出来た
記憶が有る、本校まで7㎞ぐらい有る、小学生にはきついですね。
寄って見ました。

聞いて見ると、中学生のスクールバスの待機所のようです。
中学は全町、一校に集約、小学校は昔のまま、全町4校のようです。
大雪連峰、右が十勝連峰が続くのですが、雲に隠れてますね。

この、中心辺りが旭岳を中心とした大雪連峰に成るのですが、残念。

普段の行い良ければ、こんな風景見られるのですが。

十勝連峰も雲の中、条件良ければ噴煙が見える事も有りました。

聖台分教場前の国道です。
昔から、町民が花を町内に植える運動をしてる『花の町』としても知られてます。
道路脇に花が植えられてますね。

私の通学路だった、金比羅山神社の高台に戻りました。
ここから見える、故郷は住宅街ばかりでした、低い平面地帯には一軒の農家も有りません。
人口は平成2年5700人が現在1万人を越えたそうです、道内屈指の人口増加率だそうです。
この写真の左側の林に金比羅山が有り、子供頃の遊び場でした。
残念ながら、火災で無く成ってる。 言葉は分かりませんが本山に返したそうです。
開拓の時代から、年代が変わると神、仏に対する考えも変わるのでしょうかね。
石碑だけは有りました、

中心の住宅街辺りが母校の小学校に成ります。
高台に成る、林には山菜、ブドウ、コクワ(サルナシ)が楽しみでした。

母校です、校門だけは昔のまま、
クラスは一つ、中学までクラス替えは有りません、兄弟感覚に成りますね。

国道側のグランド脇の林は昔のまま、

二宮金次郎像は別の像に変わってました。

校庭の木は、大木に年月を感じますね。

現在の母校校舎です。昔は当然木造校舎、でも作りは頑丈でしたよ。
冬に成ると、登校するとストーブには火が入ってましたよ、小使さんの住宅は学校と
併設されてました。

グランドで、数人の学生が運動をしてました。
許可を取って無いので、近くからの写真に成りました。
奥に見える、林の所に中学校が有り、グランドは共有でしたよ。
このグランドを見て、懐かしい思い出が有ります、今では考えられない。
私は、終戦直後ぐらいの入学ですが、このグランドは粘度質で水はけの悪いグランドで
一度雨が降ると、数日は使えない。
そこで、グランドの中心から小川まで父兄が、巾50㌢、深さ70㌢長さ100㍍ほどの溝を堀
全校生徒で、近くの忠別川からニギリ拳ぐらいの石を数日集めて、溝に埋めた記憶が
有ります、石の上に父兄が柳の木を被せて、土を埋め戻しして完成。
働きアリの、行列に見えたでしょうね。今では考えられ無い、誰の案だったのでしょうか。
川から、石を取る事じたい違反行為。 時効だから許してもらいましょう。
その後、見違える程水はけが良くなった事を記憶してます。

東神楽町の位置関係と母校の辺りです。
旭川市、駅裏の近くに道の駅が出来てる。
一泊させて貰いました。 道の駅で夕食、美味しかったですよ。

母校の回りは、住宅街とショッピングセンターに変貌してましたが。
校庭の林を、歩いた時には?十年前の事が思い出されるものですね。
明治29年に、東聖地区に40戸の移住者が有り、学校設立が必要に成り、開校された。
児童数は12名だったそうです。 現在の生徒数433名。
開拓の時代から、北海道もどんどん、新しい歴史が作られて行くのですね。
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- 2014/09/21(日) 11:37:53|
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