明治時代の北海道駅逓所制度について、説明用意
『駅逓所の役割』 クリック
旧忠別太駅逓所は、札幌から進み旭川市に入る手前、旭川大橋の近くでした。
そこは、上川盆地にとって三大河川の石狩川、忠別川、美瑛川の合流地点でしたよ。
北海道開発そして、駅逓所の場所と河川との重要な関係がここ忠別太駅逓所でも再確認しました。
上川道路(当時は囚人道路とも表現)の工事が進むにしたがい、開拓の進捗には道路沿いの
忠別太(現旭川市)音江法華(現深川市)空知太(現滝川市)奈井江(現奈井江町)
岩見沢(現岩見沢市)の5ヵ所に駅逓所の設置形画進行が開拓の進行を早めたのですね。
旧忠別太駅逓所は、上川農作試験所の官舎だったそうで、明治19年建立されてます。
忠別川側に看板が有りました。

場所です。
敷地内に説明板が。
明治20年、上川道路(札幌〜旭川間)の作業に当たっていた樺戸監獄署の忠別出張事務所
と成ったのです。

明治22年官設駅逓所として、正式に忠別太駅逓所として開駅されました。
通路から駅逓所全体です。

裏側です。

裏側には、勝手口が有りました。

駅逓所通路反対側。

入口階段です。

玄関を入った所です、思いのほか小さい玄関でした。

平面図が有りました。

事務所です。
農作試験所が前身、ここには測候所、忠別電話局も有り最先端拠点として上川開発には
重要な役割を持ったいたようです。

玄関を入って奥に居間が有ります、狭い部屋でした。

勝手口ですが、ピンボケ(何時もの事技術不足)

風呂です、懐かしい私も子供の頃、五右衛門風呂でした。

真ん中の敷板に上手に乗って沈めていかないと、沈没。
私も明治時代の人間か?? 田舎育ちと言う事にしときましょう。

台所に釜戸が二つ。

井戸です、建物内の井戸明治時代としては珍しいのでは。

客室です。広い部屋でした。

こちらも、客室です。泊まりが多い時は相部屋だったのでしょうね。

風呂から客室に行く廊下。

壁です。 何処の部分もそうですが歴史を刻んだ建物です。

庭には指定保存樹。
鉄道の開通で明治36年廃駅となってます。

歴史を感じる太いサルナシ(コクワ)が頂上まで巻きついてましたよ。

コクワの実がついてました、最近何処の山に入っても山ぶどう、コクワを
見る事が少なくなりましたよ。
コクワ食べ過ぎると、オシリがかゆく成りましたね(笑)

明治時代の駅逓所の写真が有りました。
昭和41年旭川市最古の建造物となり、旭川市指定文化財。

明治23年の旭川、神居、永山の開村、明治24年より屯田兵の入植などによる
人や物資の流通に大きな役割を果たしたそうです。
囚徒は別に獄舎を近くの地に建設されてたそうです。(工事の為の囚徒)

現在の生活は、明治時代の屯田兵、一般人の本州からの移住、囚徒の開拓の苦労の
歴史が有る事を再確認しましたね。
忠別太駅逓所は北海道に現存する5ヵ所の駅逓所の一つです。
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- 2014/09/18(木) 11:37:40|
- 駅逓所
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