北海道駅逓所制度、始めて聞く方ここに、説明ブログ用意
『駅逓所の役割』クリック。
空知太駅逓所跡は石碑なのは、知ってましたが行き着くのに苦労しましたね。
今までの駅逓所、ほとんどが川に関係してる、今回も空知川を参考に探索。
そこは、空知大橋を渡り国道12号線に近い、中小の会社、住宅街の一角でした。
明治22年頃江別から現旭川まで、5箇所の駅逓所が作られましたが、その一つでした。
第三美瑛舎とも言われてたそうです。
国道12号線沿いの会社裏にひっそりと、立ってる石碑、明治時代は大切な場所でしたが。

奥の緑が空知川の堤防です、 船運の利用の多い駅逓所が想像できます。
この直ぐ下流が石狩川です。

石碑は昭和48年建立と有ります、開駅が明治22年。 廃止が明治39年
初代取扱人、 高畠利宣。
昭和48年古い駅逓所を廃棄して石碑にしたのでしょうか?

角度を変えて、わずかに空知太の文字が。
北海道一の大河石狩川と空知川が合流する空知平野の中央部で、開拓には重要な場所
だった事が想像できますね。
石狩川を渡れば、増毛街道(現国道275号線)との連絡も容易でした。

場所です。
滝川神社参拝。

十津川村移住者の影響でしょうか、ここの手水舎も竜の彫物でした。

狛犬も立派、大きな神社です。
明治23年7月屯田兵移住で、神霊拝所を建設、滝川神社の前身となったようです。

本殿。 明治28年本殿を建立滝川神社となる。
その後、何度かの造営、本殿改築の歴史が有るそうです。

神社には珍しい、魚菜供養之碑。 包丁塚石碑です。

滝川屯田兵移住記念碑。
明治22~23年に移住、士族屯田兵の最後だそうです。
山形県と奈良県の十津川移民の人達で、屯田兵が入植した頃は中空知の中心地として
北海道開拓の拠点地だった時代が有りました。
明治31年鉄道が忠別太(現旭川)まで延伸された頃から開発の中心は旭川に移ったそうです。
明治31年大洪水で大きな被害が出たことも大きく影響した歴史が有ります。

滝川道の駅に寄りましたよ。

あまり大きな道の駅では有りませんが、地元野菜が有ります。
12号線沿いですから、駐車場は広い、遠距離トラックの休憩場所にも成ってますね。
車中泊の方は、駐車場所を考えましょう。

ここに寄るとソフトと決まってます。昔は道の駅田園の里うりゅうのソフト
でしたが、味は滝川ですね。 最近は三笠道の駅が上位かな、(個人的の評価)

北海道開拓は、大河と出来るだけ平らな平野が条件。
そんな所に駅逓所ができる。
ブログランキング、バナー下です。クリックよろしくお願いします。
- 2014/09/15(月) 07:30:31|
- 駅逓所
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0