明治時代の北海道開拓に重要な役目を果たした駅逓所を時々紹介してますね。
始めて聞く方は、駅逓所の役目に疑問が有ると思います。
『駅逓所の役割』 明治、大正の北海道開拓の時代、北海道に来る人、旅の人に宿泊所として、又、人や
馬を貸し出し次の駅逓所まで、または目的地までの便宜を図ってた。
勿論有料です、 蝦夷と言われてた江戸の時代には通行屋の制度も有った。
札幌市の定山渓方面の簾舞に、一箇所だけ保存見る事が出来ます。
全道に現在、駅逓所として保存、管理されてる駅逓所は5箇所有りますよ。
後は、石碑、説明板ですね。
運営は反官、半民の請負制で誰でも出来る制度では無かったようです。
最大多い時で全道に、517駅(千島41含む)有り開拓に大きな役割を果たした制度です。
昭和21年、各地の道路、鉄道の拡充で制度は廃止に成る。
新十津川町、苦難の開拓歴史歩きました。(前回ブログ)
新十津川町から、国道451号線を日本海に向かい、約20㎞の地点に吉野地区が有ります。
そこに、西徳富駅逓所跡が有り行ってきました。
この地区には他に南幌加駅逓所、幌加徳富駅逓所が歴史の中では有るのですが、行きつけ
ませんでした。
西徳富駅逓所は、吉野小学校近くの情報で分かり易い。
『新十津川で心呼吸』の看板で直ぐ発見。 町章は奈良県十津川村と同じだそうです。

吉野小学校校門そばに、西徳富駅逓所の碑。
近くには小さな集落、山に囲まれた田園地帯ここの駅逓所の役目は何だったのでしょう。
近くに、石狩川に合流する徳富川、日本海浜益地区との交流の為?

この地区の開拓に功績の有った、西徳富土功組合創立記念碑。

旧吉野小学校です。
明治38年開校103年の歴史に幕を下し閉校、現在は『かぜのび』として、アートの森彫刻
体験交流促進施設として、町民の憩いの場として活用してるそうです。
かぜの中の、のびやかな時間。 農道を抜けて、あの高台の『かぜのび』へ行こう
が主旨だそうです。
私も子供時代、稲作農家で育ちましたが、農繁期は早朝から暗くなるまで、体を酷使
してるのが農民でした。
この吉野小学校跡の活用を見て、嬉しくなりました。

グランドまで、入らせて貰いました。
中央にモニュメントが有る。
最初の石碑には。『新十津川小学校よ永遠に』
清き流れの 十津川に よしの桜の 生うけて
教えの庭に おいたちし やまとなでしこ 美しや
朝にのぞむ ピンネシリ 高き姿をあおぐべし
夕辺に 澄める徳富川 清き心をうつすなり

校庭の石碑の先に積まれた石は、歴史の数だけ積まれてるそうです。
私はこの前に立った時、この先々頑張って乗り越えて行こう、の意味に見てしまいましたね。

校門前には、小さな池が。

ソバ畑が有りました、本場は幌加内ですもね。

実りの時期のようです。(左) 吉野小学校校庭の花 (右)

西徳富駅逓所場所です。
吉野地区より、左側浜益方面に向かう幌加地区に後2箇所あります。
この地区に3箇所の駅逓所の設置の意味は分かりません。
日本海側との交流、徳富川を利用した農産物、木材の船運だったのでしょうか?
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- 2014/09/12(金) 11:07:59|
- 駅逓所
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