新十津川町は国道275線沿いの町で、石狩川を挟み国道12号線側は滝川市です。
道東に長年住んでましたから、この町は何度も通ってましたが歩いた事は有りません
でした。
平成14年奈良県、十津川村国道168号線十津川街道を通り、道の駅十津川に寄った時
地元の若い青年と話す機会が有りました、その時始めて北海道十津川町との歴史を知りました。
それは、苦難で悲壮な移住の歴史でした。
その時、青年は移住した北海道で町まで、発展した事を喜び今でも十津川村からはソバ、木工品
を送り、十津川町からはメロン、米等で交流が続いてるそうですよ。
新十津川物語、やNHK 大河ドラマでさらに、知る機会が有りました。
一度ゆっくり歩いてみたいと思ってました。
奈良県の十津川村は、ほとんどが森林の県、深い渓谷の川沿いに集落が有る、そんな記憶です。
少し、オーバーに表現すれば谷沿いの反対側に、大声で話せば会話出来るのでないか、そんな
急傾斜の谷間でしたね。
当時の写真で、プリント写真をデジタル化して見た物紹介します。
谷瀬の吊橋です、高さの有る吊橋で十津川村を想像出来ると思います。

明治22年8月奈良県十津川郷で大水害が発生が、苦難の移住の始まりでした。
『鳥も通わぬ十津川の里』と太平記に書かれた山村、十津川村だったのですね。
山や谷壁がなだれ落ち、渓谷をせきとめ、ダム湖が決壊大災害になったのですね。
十津川町です。
十津川町に入ると、すぐの所に菊水公園が有りました。
この公園は、十津川村忠臣、楠木正成の家紋の旗指物を展示し菊水公園を造成して
いる事からも、十津川村の記憶の念が表れてますね。

北海道長官永山武四郎の勧めを受け、北海道に新十津川の創立をうながし、600戸、2489人
移住人は、3回に分かれて故郷を出発、神戸港から小樽港に入る。
十津川町公園には、どこも移住の苦労の碑が多く有ります。

大きなハルニレの木です。

開拓記念保護樹木、説明板です。

開拓の碑 『故郷の残夢』
死者168人、家屋流失426戸、耕地の流失226ha。生活の基盤を失った者3000人。
嵐は数日続いたそうです。 最近も想像を越える災害が有りますが、言葉が有りません。

広い公園です、作業員が清掃中でした。

『望郷の碑』
ふるさとは 空をただよう
白い雲 目に遠く 心に近く
消えては浮かぶ
白い雲
開拓の苦難の日々、時々故郷に思いをよせる心が感じられますね。

『洪水の碑』
小樽から市来知(現三笠市)までは汽車、明治22年にはもう北海道の一部ですが
鉄道の時代だったのですね、 私は想像もしてませんでした。
その後徒歩で空知太(現滝川市)へ。

菊水公園に隣接して出雲大社が。

中央公園です。

新十津川町開拓記念館、休館でした。
空知太(現滝川市)の屯田兵屋は建設中でまだ、150戸しか無く一戸に移民4戸が
入ったそうです。
十津川村を秋に出発ですから、現滝川市で冬を過ごしたのですね。

レンガ作りの立派な作りでした。
滝川の屯田兵屋で越冬し、徳富川流域のトック原野(現新十津川町)に入地開拓の歴史が始まる。
滝川に到着した11月から23年7月まで96名が死亡したように悲惨な移住のスタート
だったそうです。

新十津川農業記念館、ここも休館でした。
北海道には、多くの被災地からの移住者によって開拓されたきた歴史が有り、本州の
開拓の歴史とは大きく違うと思いますね。
上川郡愛別町村には明治28年岐阜団体、山梨県の水害被害者は倶知安村と現豊頃町に
『災害と戦災で生活の場を失った人達の開拓の土地となった時代』
ですね。 今でも本州の地名そのまま、使った地名が多くありますよ。

新十津川小学校跡地記念碑のようです。

新十津川神社参拝してきましたよ。

広く、大きな樹木歴史を感じる神社でした。

本州の神社でよく見かける手水舎、奈良県からの移住が感じられますね。

本殿。

百年記念碑。

開拓功労者、西村氏の碑。 風化で良く読めませんでした。

明治23年6月そこは、大木が生い茂る未開の大地、厳しい自然。
測量風景写真が有りました。

現在の新十津川町航空写真です。
左が徳富川、右が石狩川で、左下が新十津川市街地に成ります。
何代かで、築いた貴重な大地ですね。

12年前、十津川村で出会った青年が私の故郷は村ですが、移住された方々は
町にまで、発展したのが嬉しいの言葉を思い浮かべながら歩いて来ましたね。
歌。 石狩川流れ節。 民謡。 尾形博子。
参考資料、 新十津川HP, 新十津川物語、 Wikipedia
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- 2014/09/09(火) 11:36:54|
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