札幌市の歴史を、考える時明治初期の屯田兵を、直ぐ思い起こします。
琴似屯田兵、新琴似屯田兵、八軒、二十四軒等の地名は今も残り地名として
使われてますよ。 最初に入植したのが、八軒、二十四軒から開拓が始まったのが
地名として残ったそうです。
最近、市内の公園、神社等散歩して再確認した事が有りました。
屯田兵以外にも、市内各地に本州から入植が有り、開拓の鍬がスタートしてた
事を知りました。
札幌市郊外の開拓歴史に急に興味が湧いて来ました。
資料と、江別郷土資料館に電話でお世話に成りましたが、旭川市の道央に向かい
駅逓所が、有ったり集落発祥の地が有る事を知りました。
『北海道の駅逓所』について簡単に。
明治初期には、北海道に駅逓所は126箇所設置されたそうです、江戸時代直後ですから
早い行動ですね。 主な業務は宿泊、人馬継立、郵便だったそうで、本州の街道宿場と
似てますね。 取扱人には月額10円の手当金だったそうです(高いのか、安いのか?)
駅逓所は、昭和23年に廃止に成ってます。
今回、江別駅逓所跡を訪問する事に、札幌から約25㎞の距離の集落、札幌との歴史の差に
興味を持って訪問。
駅逓所は、江別市の郊外に有り、小さな森と雑草の多い所だった。
行き着くまで、何人かの人にお世話に成りました、それだけ分かりずらい所。
この当たりでしょうか。
そこは、榎本公園の中でした。

榎本武揚顕彰碑が立ってました。
榎本は北海道開拓に貢献の多かった方ですね、明治政府の要職を歴任し、北海道開拓の
雄志を託し、この地に農場を開いたゆかりの地で、江別市発祥の地でもあるのですね。

歴史の碑文です。

そこは、小さな森の中、駅逓所跡でも有ります。
江別資料館によると、『対雁駅逓所』と書きアイヌ語で『ツ イシカリ』と呼ぶそうです。
『津石狩』とも書くそうです。
対雁は今でも地名として使われてますよ。

今の市中心部からは、離れて居ります。
明治4年宮城県から、農民21戸、76人が移住、対雁村が出来たそうです。
驚きですね、札幌市内の開拓の歴史と変わらない、明治政府に成って間もなく全道各地に
開拓の鍬が入ったのでしょうか。

説明板が有りました。
明治9年には、南カラフト、アイヌ127戸、854人もこの対雁地区に移住した
歴史も有るようですね。

対雁百年碑です。
駅逓所は、明治12年、13年に対雁、江別両村役場が置かれた。 ここが、江別の中心地
だったのです。

明治15年に現在の地に、鉄道開業により人の流れが江別、野幌に移り主な輸送手段が舟から
鉄道に変わったのですね。衰退の道、18年に駅逓所廃止となり、19年には役場、郵便局も
江別村に移転したそうです。

御大典記念の石碑。

駅逓所と同時に、対雁番屋の名所も残ってるので、近くの石狩川の鮭魚、又、内陸への
重要な舟交通の拠点でも有ったのではないでしょうか。
榎本公園裏には、小さな細長い池が有りました、昔石狩川と関係してた小川のような
気がしました。 船着き場が有ったかも。
そこで見た、赤い木の実。

美味しそうですが、ダメでしょうね。

北海道駅逓所では何度かブログで紹介しましたね。
1. 別海町、
旧奥行臼駅逓所。 2013,9,30
2. 札幌市、
簾舞通行屋 2013,11,9
3, 北広島市、
旧島松駅逓所 2013,11,25
江別資料館で得た、資料等で少し札幌を離れて開拓の歴史を歩いてみたいと
思います。
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- 2014/08/03(日) 11:48:17|
- 駅逓所
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