ブログ書き出し、認識しました。6月何ですね。本州に入り20日が立ちました。
垂井宿は中山道の宿場であると同時に美農路の起点の場所でも有ったのですね。
垂井宿総家数315軒で、商工業者が多く軒を並べてたそうです。
現在は一部に、当時の面影を残してますが、現在の商店街に変わった感じを受けました。
役場に寄り、説明と地図を頂きました。
車ですか、止めるとこが有りませんから、役場の駐車場を使って下さいと。
車旅をしてると、道の狭い本州で一番困る問題です。役場の職員の方。ありがとう。
中山道に出ました。今まで見た、中山道宿場町と雰囲気が違います。

こんな時は、一歩裏道を歩く事が有ります。
商店が有りませんから、収穫もありますよ。

古い建物で母波屋と有りました。

東の方に歩いてると相川が。
相川人足渡跡で、相川は昔から暴れ川で、たびたび洪水があり、そのため、江戸時代初期
には人足渡しによる、渡しが主で有ったようです。
川越人夫は垂井宿の百姓がつとめ、渡川時の水量によって渡賃が決められていたそうです。
体重は関係無いのか心配になりますね。

さらに、東に進むと松林が有る事を役場の職員から聞いてました。
見えてきました。

長年頑張ってきたようですね。

ここの、地蔵さんはどこより大きく、建物も立派ですね。

垂井追分道標があります。
追分は中山道と美濃路の大切な分岐点でした。ここには宝永6年に建てた
『是より右東海道大垣路左木曽街道たにぐみみち』と刻まれ、中山道道標で七番目に古いそうです。

街道の分岐点に当たるところに、お休み処が。
ここで、茶とダンゴで次めざして歩いたのでしょうね。

旅籠屋長浜屋です。これは当時のままだそうですよ。

当時の垂井宿をしのぶ、ただ一軒の宿場風景だそうです。

本龍寺です。
山門や書院の玄関は脇本陣から移築されたものと言われてるそうです。
松尾芭蕉は元禄四年、冬ごもりして『作り木の庭をいさめる時雨かな』などを詠んだそうです。
明治天皇も御小休所されたそうです。
大きく貫禄のある寺でした。

大ケヤキが有り、名水が湧く泉まで歩きました。
涼しさを感じる所でした。

大ケヤキの根元です。全体像をカメラに納めることは出来ません。
名水50選に選ばれてるそうで、大ケヤキの幹まわりは八㍍あるそうです。

今まで見た、宿場とはちょっと違ったイメージでしたが。
それぞれの、地区の条件に合わせ、一生懸命努力されてるのでしょうね。
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- 2013/06/01(土) 08:32:34|
- 岐阜
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