歌志内市の全道展画家、本城さんが札幌市内ギャラリーで回顧展開催。
大型の油彩、懐かしい明治、大正期の骨董品や珍しい収集品と幅広い個展
でおどろきでした。
なかには、手作りした樹脂製の作品など時間をわすれて楽しめました。
来場者も多かったですね。
本城義雄さんは、歌志内市に『大正館』と言う私設資料館がありまだまだ多くの
作品があるそうです。
歌志内市は、空知地方になり昔は炭鉱の多い地方でした。
市内に15の坑口があり、人口の多い時で4万6千人だったそうですが現在は日本一
人口の少ない市で、3千3百人だそうです。
個展は終了。
歌志内市の位置関係。
回顧展。
昨年、体調を崩しこれが最後のつもりで開催したそうです。

テーブル帽子の方が本城さん。 来場者案内中。

油彩、珍しい収蔵品がならびます。
手作りの帆船も見えます。

手作りの樹脂製飛行機。

デッサン画も。

油彩の大作。

懐かしい。

これを記憶してる方は、年齢が分かります。(笑)

すべて、手動時代のカメラ。

なつかしい!!!

日本製ではないと思うのですが。

明治から大正期の柱時計。

非常に珍しい時計、八角型カレンダー付。
アメリカ、ギルバート社製。 明治中期。

油彩。

絵の中心に、人形やマネキンを描いた作品が多かった。
本城さんは『人形には作家の思いが込められているから』だそうです。

本城さんは歌志内高美術部で絵画を初めて、これまで約
60年間、絵筆を握ってきた画家です。
- 2018/08/29(水) 07:30:05|
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永山武四郎は、高齢道産子では知ってる方は多いと思います。
若い方、そして全国的には知られてないかも知れませんね。
屯田兵生みの親で、後に第2代北海道庁長官となられてます。
明治6年屯田兵設定の必要性をのべ、政府に受け入れられ屯田兵制度が定められてます。
屯田兵の役割は、北方領土警備ですが実体は開拓の貢献が多く制度が廃止される
明治37年まで全道に37兵村が設けられてます。
札幌市内の永山記念公園案内板。

旧永山武四郎邸、 左は旧三菱鉱業寮。
旧永山邸は明治10年代前半に私邸として建てられた。
北海道有形文化財。

旧三菱鉱業寮、昭和12年永山邸に併設された。

旧永山武四郎邸玄関は閉鎖。
旧三菱鉱業寮から入ります、すぐのロビー。

旧三菱鉱業寮一階でレストラン&喫茶店運営。

鉱業寮部屋で旧永山武四郎邸と旧三菱鉱業寮歴史ビデオ説明。

その中の1シーン。
明治8年琴似兵村開墾着手記念、現在は高層ビル地域北海道命名150年
先人の苦労が目に見えるようです。

旧三菱鉱業寮2階です。現在は貸室で活用。
当時、この地区には各種会社や屯田司令所があり、開拓の拠点
の場所であったそうです。

窓は二重窓、北海道では古くから設計された寒冷地技術。

丸窓。
昭和初期採光用とアクセントデザインとして流行したそうです。

旧永山武四郎邸、正面玄関。

玄関を入った所。

洋室、和室が続いてます。
和洋折衷様式が採用され、以後の明治期の特色ある住宅の先駆けとなった。

床間。

旧三菱鉱業寮より古い建物窓は二重ではありません。
開閉は上、下する方式。

明治20年頃の永山邸スケッチ。

縁側風景。
昔田舎でよく見かけた光景です、懐かしい。

裏庭園から。

広い庭園が保存されてます。
倒れた枯木ではありませんよ、オンコ(イチイ)の木で左側が根、右側に
枝がのびてました。
成長の遅いオンコですから、相当の年数の木もしかしたら永山武四郎も
鑑賞してたかも!!!

永山武四郎は天保8年鹿児島で生まれ、北海道の開拓
と防備に関係するようになったのは明治5年でした。
- 2018/08/22(水) 07:30:52|
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7月27日夕方、自宅居間のベランダから東方面の月の出を見ていた。
火星最接近の報道もあり見てると、月は満月状態の美しさにカメラを用意。
まもなく、空は薄い紅色に染まってくる。
西側の部屋に移動してみると、今にも太陽が隠れようとしてる夕日状態。
月の出と、夕日がほぼ同時だったのですね。
夕日。太陽が隠れようとしてる。

月の出。
カラスが、ねぐらに帰るところですね。

カラスの、ねぐらは大倉山ジャンプ競技場、近くの円山公園らしい。
子供の頃、遊び疲れた夕方『カラスが鳴くからかーえーろ』と言いながら
田舎道を、帰った記憶がありますね。

満月。

7月の満月は28日でしたが、ほとんど変わりませんね。
円山公園のカラスは、昼間北方向の石狩湾方面に向かうようです。
朝4時頃目覚めると、御出勤のカラスの鳴き声を耳にします。
港の方が食物に苦労しないのでしょうか。
- 2018/08/15(水) 08:02:03|
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昨年11月の新聞に、岩見沢市志文町に明治開拓時の面影残す原始林が
1,2㌶が残されている事を知った。 志文(しぶん)
その地は、明治25年に入植した辻村直四朗氏が残し子孫の方が守ってる原始林
である。
一度訪問したいと思っていたが、先日実現した。
原始林入口で、『グランマ ヨシエ』の手作り菓子店を経営してる子孫の方にゆっくり
話を聞くことができた。
辻村直四朗氏は、現在では岩見沢市の歴史にとって重要な人物であるが入植
当時は、苦労が多かったそうです。(後で)
JRで岩見沢駅下車。バスで志文市街へ。
岩見沢駅は大きな駅。

志文駅到着。 JR室蘭線は石炭を運ぶため明治25年開通。
志文駅は明治35年に開駅。

辻村原始林に向かい歩く。 途中で志文神社参拝。

志文の歴史を見てきた狛犬。

台座に刻まれていた、辻村直四朗氏の名。

辻村直四朗原始林地図。
原始林近くに建立されてた、辻村直四朗記念碑。

志文学術自然保護地区。北海道指定。

原始林入口に辻村氏子孫経営の菓子店。5〜10月。水、木だけ営業。
家族にも評判良かった、美味しかったですよ。
ここで、ゆっくり辻村直四朗氏の開拓に関する、喜怒哀楽の話を聞くことができた。
時々来客のある中、本当にありがとうございました。

辻村直四朗邸です。 大正3年建立。
私有地ですので原始林入林含め許可が必要です。

住宅原始林として岩見沢市指定。
大正時代に、道庁から屋敷林特賞を得ているようです。

原始林を歩かせてもらう、辻村直四朗邸裏庭から。
和風でもあり、洋風にもみえる。 大正初期とは見えない建物。
オシャレな建物、 貴重です。

子孫の方は、近くに別邸に住まわれてます。
この風景守ってほしいですね。

原始林です、ほとんどが広葉樹。

日差しも入らない原始林。

針葉樹も少し。

自分が歩いた所は、ほんの一部ですが樹齢200〜300年だそうです。

大木が多く日差しが入らないので下草が少ない。

暑い日でしたが、涼しさで気持ち良い。

樹齢600年代の大木が有ったそうですが、7年前に強風で倒れたそうです。
残念でしたね。 後は次世代の栄養に。

辻村直四朗氏入植時苦労。
直四朗氏は、現小田原出身で22歳の時東京農林学校(東京大学農学部前身)を中退し
北海道開拓に希望を抱いて来道した。
未開の土地が多くあると思っていたが、広大な未開地の大半は、貴族、財閥、役人、有力者の所有地であった。
自分もこの件は知りませんでした、道庁で北海道150年史を調べてみると、たしかに明治初期
にはそんな時代があった、まさに、北海道は本州各藩の占領地のよう!!!
ところどころに道占有地がわずかに有るだけ。 当時の状況を示す写真がありました。

自分の土地を手に入れる事ができなかった直四朗氏は、やむなく知り合いの所有
する未開の長沼(馬追)で農業支配人となったようです。 志文から近い距離ですね。
この1年後に役人の土地を購入できた、それが今の志文である。
約100㌶と広大な土地。
明治27年には、小作人も増え周辺戸数が増え有志で寺子屋をつくる。
これが、現在の志文小学校の前身である、まさに志文町の父。
現在の志文小学校。

長女もと子。
昭和16年に『馬追原野』を発表、父直四朗がモデルで、入植当時長沼町
馬追(まおい)での農場支配人時代の苦難の開拓の様子が書かれた文学作品である。
第1回樋口一葉賞受賞。
父の開拓時代を書いているが、中途な感じを受けるそうです。
馬追原野、その2、その3がもと子には構想があったと考えられてます。
しかし、若い頃から病弱だったもと子は残念ながら、40歳の若さで亡くなってます。
昭和47年長沼町馬追丘陵に文学碑『馬追原野』が建立される。
※志文町の近くに、江別市東野幌があります、千古園が有り、くしくも志文の辻村氏とほぼ
同時期に関矢孫左衛門が入植してます。 昨年訪問しブログ投稿してます、規模は辻村原始林
が大きい。
・ 『
千古園北の開拓に尽くした関矢孫左衛門屋敷跡』 (リンク)
今回突然の訪問に、子孫の方が長い時間をとっていただき志文町の父
辻村直四朗氏について話していただき、本当にありがとうございました。
- 2018/08/08(水) 08:01:48|
- 岩見沢市
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日本には、三大がっかり名所があるようですね。
本当にそうなんでしょうか? 訪問する方の目的、観光地としての
時代背景を、考えてみると見方がかわるかも知れませんね。
道産子として、どうしても札幌時計台応援したくなります。
重要文化財で、正式名称は『旧札幌農学校演舞場』北海道大学の発祥の地、明治11年建設。
北海道庁旧本庁舎と並び、札幌市中心部の観光スポットで観光客の途切れる事が無い。
現在は大補修工事中で、休館中です。 6月1日〜10月31日まで。
工事前の写真がありますので、紹介します。
補修工事足場シートに描かれた時計台。

休館前の時計台、裏側。

ベストポジションです。

正面です。まわりは近代的ビル一時の休息の場所ですね。
内部には資料館として見学もできます。

がっかり名所の一つ、オランダ坂。
平成24年、日本一周旅で歩く。坂上に学校があった記憶があります。
ただの石畳の坂でしょうと言えばそれまで、長崎訪問のオランダ人が歩いた
時代背景を、考えながら歩くとまた見方がかわりますね。
歩き疲れて、食べた長崎カステラ美味しかったですね。

もう一箇所のはりまや橋、20年前に訪問してますが申しわけないのですが
イメージがないのですね。探してひっそり有った記憶があります。
20年たってますから、現在はどうなんでしょうか?
高知市で記憶に残ってのは桂浜ですね。 Wikipedia

桂浜の坂本龍馬銅像写真が残ってました。

はりまや橋は、歌手ペギー葉山の歌で全国区になったのでしょうね。
最近は、日本一の○○○が何処でも多すぎますね。
だれか、決めて下さい(笑)
- 2018/08/01(水) 08:10:14|
- 時計台
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