今回は私の苦手な、花ブログ写真中心で紹介しますね。
正式には春香山、オーンズスキー場と呼ばれてます、札幌から国道5号線を小樽市方面
に向かい、約中間ぐらいでしょうか、銭函の集落を過ぎた当たりで緑の多い環境です。
夏は海水浴を楽しむ所も多い。
ゲレンデ一面を各種の、ユリで楽しませてくれます。
年間の営業活動ですから、考えましたね。入場料800円、リフト料400円と少し高いかな!!
リフトの利用は個人の自由です、往復歩きで楽しんでる方もいますよ、健脚派。
私は、招待券2枚頂いたので助かりましたね、行きはリフト、帰りはゆっくり鑑賞と
一般的部類派!! 駐車場は無料、レストランも有りました。
オーンズスキー場、リフト乗場。

ゲレンデ最下部のユリ園です。

リフトを降りた当たりです。

リフトを降りた当たりは人で混雑、何故か、 リフトで来てこの当たりだけ
見学、リフトで帰る方が多いからのようです。
この先をゆっくり楽しめる場所が多いのに、残念。

丁度見頃と言って良いですね。

スキー場は林間コース、両サイドは林。
それが、ユリ達を引き立ててます。

赤系で揃えた所。

白の大輪とピンク系の大輪。

ゲレンデは今はユリ園、高度が下がり少し日本海が!!

銭函の集落が見えてきました。 吹き上げる風が気持ち良い。

振り返って見てます。

森をバックのユリも良いですね。

ゲレンデの中間ぐらいに、しあわせの鐘。
いつの間にか、石狩湾が見えてます。

写真の相手をどれにしょうかな。

色とりどり、この配置も好きですね。
一度に二度楽しめる?

赤と白系、私にはこの表現しか出来ない。
ユリの知識はまったく無い、(ほかの花もそうですが)

登りも歩きの人居ますね、年配のようですよ。

ワン子も見学、兄弟でしょうか?

黄色系、日傘で散歩の女性風景にマッチしてました。

最下部の当たり。 丁度足がヨレヨレの時間帯。

私のようにヨレヨレの方でしょうか、休憩所で動こうとしません。

帰ってのシャワーが最高、何時ものシャワーと違う。
ユリ園は、8月末で閉園と聞いてました。現在は閉園になってる可能性あります。
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- 2015/08/26(水) 11:27:58|
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旧手宮線散策路を歩き、時間が有ったので坂の町小樽を少し歩いてみました。
小樽市は明治半ばから大正、昭和にかけ、にしん豊魚と共に小樽経済が全盛を極めたのですね。
大正12年に完成した小樽運河を中心に物流拠点として、石造り倉庫群が出来た歴史が
有ります。
その運河が現在は人気の観光名所となり、港まちの情緒を残してますよ。
また、『北のウオール街』と呼ばれた金融、経済の拠点として栄えた時代をしのばせます。
今では、資料館、レストラン、店舗として活用されてます。
ほんの一部ですが紹介します。
日本銀行旧小樽支店です。
小樽市指定文化財、 構造は煉瓦造で明治45年に建設されてます。

天秤秤。
金など測ったのでしょうか。

設計者は、日本銀行本店や赤煉瓦の東京駅を設計した辰野金吾氏だそうです。
煉瓦造りですが外装を石造風の装いにまとめ、ドームの曲線と重厚な外観の調和がすばらしい。
小樽を代表する建造物の一つですね。
金庫の一番重要部分ですね。

窓口風景は今とあまり変わりませんね。
カウンターとロビーの周囲には、岐阜県赤坂産大理石が使用されてます。

小樽市内には、まだ、まだ昔をしのばせる街並に会う事が
多く有りますよ。 言い方変えればまだコンクリート化されてる所が少ないと
感じましたね。 私の好きな雰囲気!!!

古い建物ですが、現役ですよ。
聞いて見ると、小樽軟石と表現してました。小樽でも軟石採石出来たのでしょうか。

旧手宮駅近くの軟石倉庫、 酒屋さんで利用。

旧日本郵船株式会社小樽支店。
国指定重要文化財、 明治39年建立。
設計は工部大学校出身の佐立七次郎氏、当時としては最も新しい石造洋風建築だったそうです。
昭和30年代一時小樽市の博物館として使用された時期もあったそうです。
何と言っても、ここで日露戦争講話のポーツマス条約で樺太国境画定会議が開かれた
ところでも有名だそう、歴史を感じますね。

旧日本郵船株式会社小樽支店残荷倉庫。
小樽市指定歴史的建造物、 明治39年建立。
残荷倉庫の役割良く分かりませんが、旧日本郵船小樽支店と同時に建設され
一連の建築として貴重なものだそうです。

時間が無く成り、中心部に戻ってきました。
小樽駅前中央通りから駅方向です。坂の町の雰囲気分かりますか。

同じく、港方向の運河方面。

駅近くのアーケード街。
人もまばら、寂しい状態これが小樽市の今後の課題風景ですね。

小樽の観光は、運河と北一ガラスを中心とした小樽運河沿いに観光客が
集まってる。
広い観光バスの待機所があり、観光客が戻ると他の観光地に移動、小樽市としては残念な光景。
小樽市に宿泊する観光客は個人が中心のように感じましたね。
小樽市には、札幌市等にはないレトロな雰囲気が多く残されてる、何かうまくマッチング
させる方法はないものでしょうかね。
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- 2015/08/20(木) 07:37:24|
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小樽市内をほぼ東西に施設されてた、旧手宮線一度歩いて見たいと思ってましたが
その機会が有りました。
旧国鉄手宮線は幌内鉄道の一部として、明治13年に小樽、手宮〜札幌を結ぶ北海道で
最初の鉄道として開通し、開拓に重要な役割をはたした鉄道です。
開通当初は札幌まででしたが、その後空知地方の幌内地区で石炭が発見され幌内太駅(旧三笠駅)
と結ばれます。札幌から約60㎞と近い。
三笠市街から奥の幾春別地区にも炭坑が開坑(明治18年)幌内鉄道として石炭運搬ルート
として発展したのですね。
しかし、この鉄道は産業面ばかりでは、なかったのですね。
北海道開拓を目指し、本州各地からの移住者の北海道内陸に向けた足にもなったのですね。
又、十津川村の大水害で北海道移住を決断した人々の重要な足となり、幌内太駅までは汽車
移動で助かったことでしょう、幌内太から現在の新十津川町までは苦労した移動だったようですよ。
そんな歴史有る、旧手宮線跡地散策路を歩いて来ました。
小樽と言えば、小樽運河と工芸ガラスですね、ほとんどの観光客はここで終わり。

小樽運河東端当たりの寿司屋通りの坂道を歩きます。
小川が有り暑い日でも気持ち良いですよ。さすがガラスの町風鈴で和ませてくれます。

まもなく、手宮線に上がる階段が有りました。
近くに旭寿司さんが有ったかな!!

線路の橋桁はレンガ。散策路でここが一番明治の香りを感じたかな!!

反対側の南小樽方面の橋桁、この方面は散策路として整備されてません。

手宮線記念跡地を示す説明板です。
明治13年アメリカから輸入した『弁慶号』が試運転初めて公開された年ですね。
11月28日北海道で最初の鉄道が手宮と札幌の間に開通してます。

散策路に出ました、整備が悪いようですね。
開通時の停車場は手宮、海運町(今の南小樽)銭函、札幌の4ヵ所だったそうです。
所用時間は何と3時間だったそうです。

途中に有る休憩ベンチ、市内の子供達による絵でした。

踏切跡です。

散策路側には、多分保線用具入れでしょうか。

小樽駅前通りになる、踏切跡。
線路は昔のまま、一時停止不要を知らせる看板が有りました。

駅前中央通りから手宮方面に向かっては整備された散策路が続いてましたよ。

この当たりで気づいたのですが、線路が有るスペースと
散策路を含めると広いですよね、聞いて見ると複線だったそうです。
北海道開拓の将来を見据えた考えだったのしょうね。

手宮〜南小樽を示してます。

色内駅跡です。これは新しい建物。
色内駅は大正元年に手宮線の最後に開設された駅です。

色内駅と並び、線路と歩道のわづかな敷地に数軒の小さな店屋
営業をしてます、昔を忍ばせる風景ですね。

線路の上にカメラを乗せパチリ。

整備された散策路を、昔の風景を想像しながら歩く。

花のシーズンも終わりですが、アジサイが満開。

旧手宮線も小樽の観光の一つとして、工夫してる姿を感じましたね。

トロッコ自伝車で遊べますよ、 親子が多かったですね。

小樽中央通りから手宮側は気持ち良く散歩できますね。

旧手宮線最終地点まで来たようです。

安全用車止めでしょう。

旧手宮線は、色内駅が昭和36年に廃止、手宮線としては昭和60年
営業が廃止されました。
小樽観光と言えば小樽運河、ガラス工芸で運河沿いは観光客で一杯
観光バスは、客待ちで待機所で何十台も見る、買い物はするが通過の観光地
宿泊をしながら、坂の町、古い歴史的建造物も多い小樽を堪能してもらう
対策が必要に感じましたね。
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- 2015/08/14(金) 07:16:20|
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8月2日のブログで、山鼻公園の開拓期の歴史、赤い靴の野口雨情の歌碑を紹介
しましたね。
隣接して、山鼻屯田記念会館、山鼻小学校が有りました、紹介忘れてましたので
簡単に書いて見ますね。
私は北区の住民ですが、札幌の開拓の歴史は北区の琴似屯田兵、新琴似屯田兵の入植
ばかりに目が行ってましたが、昨年から市内各地を歩いてみて、市内全域に開拓の歴史
が有る事に気づきましたね。
特に今回紹介してる、山鼻地域は古い歴史と、大事な拠点でも有ったそうです。
山鼻公園に隣接した所に山鼻屯田記念会館が有ります。
どんどん都市化してく中、住民や市が歴史を大切に考えた結果残った設備ですね。

山鼻小学校は記念会館の隣り、かってはこの当たりは屯田兵の練兵場。
市内で最も歴史ある小学校の一つで、校木であるモミジは、1915年京都の
嵐山から苗木を植えた歴史があるそうです。 校舎は明治10年落成。
古い写真が有りました、中央の大木は『お声掛けの柏樹』と呼んでるそうです。
明治14年明治天皇の北海道視察のさい山鼻屯田兵村を訪れ、その時カシワの大木の立派
さに目を留めた事から『お声掛けの柏樹』と呼ばれ、地域のシンボルとされたそうです。

開拓期の原生林の一本を残したのでしょうね。 この木にはその後にも物語があった。
古木となり、昭和51年に枯死し現在はその脇から生まれた二世が同じ場所に保存されてます。
現在の山鼻小学校、私はコンクリートより、昔の木造でガッシリした感じがすきですね。

グランドの一角に、明治天皇御駐の碑

山鼻記念会館を見学で、入りましたが残念ながら上階の資料館が休館
屯田兵に関する、資料や活動写真などが展示され当時の屯田兵の生活や活動を知る事ができたのですが
またの機会ですね。
一階にはオシャレナ、『La・Verite』 カフェ、レストラン。
開拓期の方が見たらびっくりする、光景でしょうね。

ピザ焼きの炉を持ってます。繁盛してるようでした。
付近は住宅街、サラリーマン、主婦が多そうでしたよ。

歴史有る地で、少しオシャレなケーキセット。
ケーキ皿には、店名とようこその文字が、チョコレートで書かれてる。

暇の時でも、このような歴史に触れるのも良いものですね。
現在の生活を考えるきっかけになりますね。
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- 2015/08/08(土) 11:53:19|
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南区の山鼻公園に、野口雨情作詞の『赤い靴』の歌碑建立の情報を得る。
『赤い靴』の童謡には平成14年日本一周の旅で思い出があった。
野口雨情の童謡『赤い靴』と札幌との関係あることを、その時知ったのです。
日本平パークウエイを通り、日本平に寄った時のことでした。
所々に茶畑があり、富士山や伊豆半島が駿河湾越しに見え、眼下には清水港が広がり
三保の松原に見劣りしない、眺めだった事が思い出されますね。
赤い靴の主人公『岩崎きみ』の両親は事情があり、北海道に渡ったのですがその時
『きみ』ちゃんは当地に残され、宣教師に預けられたそうです。
北海道に渡った両親は、父親が新聞社に勤務そこで同じ職場で野口雨情と知り合う
のですね。
母親が野口雨情に、残して来た『きみ』ちゃんの話をする中から、自然に『赤い靴』
が生まれたそうです。
同じ山鼻地区に住んでいた野口に娘の話をしたことが、童謡誕生のきっかけになったのですね。
山鼻公園の一角に『赤い靴』の歌碑です。

日本平頂上に立つ、『きみ』ちゃんと母親を、81年ぶりに故郷
で再会させた、母子像です。 Wikipedia
『きみ』ちゃんは宣教師にあずけられた後、9歳で亡く成ってます。
あまりにも無情!!! それで歌詞に『異人さんにつれられて行っちゃた』なのでしょうか?

母子像がこんな風景の中で一緒に居られるのは
良かったですね。 Wikipedia

歌碑の立つ山鼻公園を少し紹介しますね。
公園入り口です。

札幌市の開拓の歴史は北区に住んでるのも有りますが、新琴似屯田兵、
琴似屯田兵を思い出しますが、南区にも屯田兵の歴史が有る事を今回知りました。
山鼻兵村開設碑

碑歴。
明治9年、青森、秋田、鶴岡、宮城、岩手から240戸が入植し開拓の歴史が始まっている。

開拓が進み、時代の変化と共にまわりも変わって行く中で、開拓の中心となった
この地(山鼻公園)を守って行く運動が出たそうです。
とにかく大径木に驚かされます。

中心に有るのは、銀杏ですね。

緑豊かな大径木の木陰で読書、太陽が移動しても木陰が広い
ですから大丈夫。

子供も多い。

コンクリートとアスファルトばかり増える札幌
良く守ってくれましたね。

歴史が想像できます。

多くの市民の憩いの場のようです。

ここは、ママ友グループのようですね。

当時の山鼻地区は未開の原生林におおわれ、
アイヌ語で『ユクニクリ』(鹿林の意味)と呼ばれてたそうです。
札幌では、北海道大学構内で明治期の原生林の姿を多く見られますが
一般公園でこんな大径木が有る公園は少ないでしょうね。
思い出の『赤い靴』の歌碑と、歴史を感じる日となりましたね。
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- 2015/08/02(日) 07:41:30|
- 札幌
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