自宅近くを流れる、新川水系琴似川直線で石狩湾に注がれてます。
立派な遊歩道が有り、両岸には桜が植樹され春を楽しませてくれます。
自宅から海岸までは、約15㎞ほど今の自分には散歩の距離を大巾に越えている。
運動不足解消に、ママチャリで出かけた時の話です。
海岸近く成った所に小さな公園のような所が、そこが『バッタ塚』でした。
『貝塚』は聞いた事あるが、何『バッタ塚』とは??
場所はこの当たりでした。
そこは、明治13年〜明治18年にかけ、バッタ(トノサマバッタ)が北海道を広く襲い
開拓当初の北海道の農業に大打撃を与えた歴史が有ったのです。
農作物はもとより、緑の物は何も残ってなかった程の大郡来だったそうです、群れが去った
後は、ただ赤い土と、大量の卵が残されているだけで農民は呆然とするだけでした。
バッタ塚入口は小さな公園のようです。

説明板が有りました、詳しくは札幌市手稲紀念館で知る事ができますよ。

石碑です、『バッタ塚』とあります、手稲町山口とありますから、札幌市と合併前ですね。

バッタの大群が去った後には、大量の卵だけが残されました。
農民は厳寒の北海道で越冬は出来ないと考えたようです、しかし、翌年羽化したそうです。
そこで、卵、幼虫を集めこの場所に埋め土まんじゅうに成り残ったのですね。

何ヶ所にもあります。
最初は十勝で大発生したバッタ日高、勇払原野へ移動、そこで群は二つに分かれ、一群は
虻田方面、もう一群は北上して札幌に入ったのですね。

この土まんじゅうは分かり易いでしょうか。
中央政府も津軽海峡を渡るのを恐れ、屯田兵、囚人を総動員して対策をしたそうです。

アイヌの人たちは『カタカタ』と呼んでいたそうです。
バッタの飛ぶ音からきてるのでしょうね。
私が子供の頃にも、トノサマバッタ見ましたね。とにかく大きい記憶が有りますね。
明治17年夏は低温と長雨が続いてバッタの勢力が弱まり大発生は終ったそうです。
先日知床自然遺産10周年記念番組を、見てると知床半島の根元斜里町の開拓期でも
バッタの大群に苦労された話がされてましたね。
北海道の開拓の歴史では、本州からの移住者の食料、厳寒の地での生活の苦労
だけでは無かったのですね、現在の私どもに想像もできない苦労の歴史が有ったのでしょう。
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- 2015/07/21(火) 07:45:13|
- 札幌
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