明治初期、北方警備、開拓で各地に各藩の陣屋体制が作られてました。 9月17日 過去ログ
登別市には仙台藩片倉家が入植してました、紹介します。
仙台藩陣屋跡へは、国道36号線を登別市幌別から内陸に入った所ですが分かりずらいかも
知れません、最近カーナビが多いですから心配ないでしょうね。
仙台藩伊達家家臣、片倉小十郎は明治2年に移住してます。
伊達家一門につぐ一家という家格でありながら、一国一城令が出された江戸時代にあって
幕末まで白石城主(宮城県)としてその地位を保った名家だったそうです。
仙台藩は戊辰戦争で敗者となりましたね、多くの家臣に帰農をすすめたそうですが、片倉家
の家臣の多くは武士身分を保持したまま北海道に移住できたそうです。
資料館の職員の説明では、幕府の考えは帰農して白石に残って後で反乱でもされるより
武士の身分を保持してでも、遠い北海道に移住させた方が安全と考えたとの説も有るそうです。
宮城県白石市には復元された白石城が有るそうです。
この地から明治初期に厳寒の地北海道に渡ったのですね。
幌別から陣屋に進むと、片倉町の町名が付いてました。
大きな看板案内です。

仙台藩陣屋跡到着です、閉館まで40分しか無い雑な見学に、残念。

資料館です、資料も多く時間が足りない自分の責任ですが。

陣屋跡は広い公園の中に有りました。

白老はアイヌとの関係の深い地域、アイヌ伝統彫刻です。

仙台藩は三好堅物を視察調査させてます、白老が最適と判断この地
の陣屋のスタートですね。 アイヌの協力で視察してる様子でしょうか。

当時同時に白石城から札幌市、現在の白石区にも入植してたのですね。
職員の説明で知りました。現在も地名として残ってます。
陣屋風景です。

本陣の有る風景、他に警備の訓練場が広く有ったそうです。
毎年百数十名の藩兵が駐留し、活気にあふれてたそうですよ。藩兵と地元のアイヌとの
交流は禁じられていたそうで、勤務が一年から後に二年以上と長帰化するようになり
自然と交流が深まったそうです。

展示物は多く説明も親切、しかし今日は時間が足りない。
大砲です。

資料館を出た所。この奥に陣屋跡がある。

公園から資料館。

庭園を歩いてると陣屋跡の案内が。

広い公園、休憩所も用意されてましたよ。

塩竈神社鳥居。 時間無くここから参拝。

参道の燈籠には文久元年が刻まれてました。

本陣跡詰御門です。

橋を渡る。

本陣跡に来ました。
中には本陣、勘定所、穀蔵、兵具庫、井戸も掘られてました。

本陣建物跡。

穀蔵跡。
食料は十分だったのでしょうかね。 兵は四月着任し翌年交替慣れない蝦夷地
の冬は武士たちにはつらい勤務だったでしょうね。

勘定所跡。

井戸跡です。

まだ後にも発掘の杭跡が多く有りましたよ。規模の大きな陣屋だったことが想像できます。
択捉、国後、根室、厚岸にも後には出張陣屋も置かれたそうです。
鎖国から開国の時代、ソ連の南下を想定した警備だったのしょうか。
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- 2014/11/29(土) 11:13:04|
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道内のぶらり旅でも、何故か室蘭市だけは歩いて無いことに気づく 9月17日 過去ログ
それは、地形が関係してるのでしょうか。
室蘭駅、市役所等市の重要施設は半島のように突き出た側に有る。一方JR ,国道は市街地
をパスして東室蘭がメインコースである、こんな地理的な事が関係してるのでしょうか。
国道は白鳥大橋だ出来、市中心部に入っても便利に成りましたが、国道として整備が
遅れているように感じました。
室蘭市の地図です。
鉄の街として、歴史有る室蘭を歩いてきました。40年ぶりくらいでしょうか。
札幌から室蘭には支笏湖線が近いのですが、当時大雨の影響で通行止めが続いて
居たため苫小牧コース、道の駅ウトナイ湖で小休憩。

ウトナイ湖はアイヌ語の『ウッ・ナイ・トゥ』(あばら骨の沼)から呼ばれてるそうです。
この湖を水源とするいくつもの河川が合流するのが、背骨と助骨にたとえた命名だそうです。
マガンや白鳥の集団飛来地、季節により数万羽が飛来するそうですよ。

旧室蘭駅舎。
夜はライトアップ、現在観光案内所になってます。
明治45年に建設され、北海道の駅舎では最古の木造建築物、明治期の洋風駅舎を感じますね。
平成9年現室蘭駅に引き継ぎ使命が終る。 現駅舎も近い距離に有りましたよ。

歴史説明です。

昔の駅、 面影を残してますね。昭和の時代は何処の駅もこんな感じ。

旧室蘭駅前の広場を少し進むと階段がある、階段を上がると昭和の雰囲気がある街並
昔は栄えた街を想像させる通りに出ましたよ。
まづ、目に入ったのが旧丸越山口紙店でした。 この前の通りは明治初期造成され
何故か札幌通りと呼ぶそうです。昔はここが室蘭のメインストリート。
レンガ作りですが保存されてます。

大正12年に建てられてます、現在廃業。
店内見せて貰いました。

店内です、思い出深いものも有りました。
補修しながら市民のイベントに利用されてるそうです。

中央町の昔のメインストリートにはアーケードが有り、栄えた時代を
思わせてくれます。 所々にレトロな建物が見られますよ。

オシャレな『カフェ英国館』
洋館風の外観が特徴ですね、人気子役の芦田愛菜さんが出演した『マザー』のロケ地
になったそうです。 昭和の雰囲気が多く有る事からその他のロケとしても使われてる。

シャッター通りでも有るのですが、歩きたくなる不思議な通りですね。
そんな通りにレストランが、昼食タイムです。雰囲気に負け何時もより豪華版。

古い時代のメインストリート。

車も人も少ない。

そんな街に残されてる老舗の菓子屋さん『富留屋』
おすすめは『あずき花』。道内産小豆を使い粒あんにこだわりの有る
店です、美味しかったですよ。

旧市街から新室蘭駅方面に下りました。急に景色が変わる。
近代化されてた風景。

港の文学館。
室蘭が生んだ芥川賞作家、八木義徳、三浦清宏、長嶋有の3人を中心に
写真など900点の展示が有るそうです。 2階ではコーヒーも楽しめますよ。

オシャレな建物ですね。

防空壕跡が有る情報で、道の駅が有る祝津町に移動。
そこは、水族館敷地内でした、 室蘭水族館は昭和28年に建設された
道内最古の水族館だそうです。

水族館敷地内に来航記念碑が。
『英国船プロビデンス号来航記念碑』でした。 鎖国時代に蝦夷の地室蘭
に来てた黒船ですね、 寛政8年内浦湾に入り室蘭をヨーロッパに紹介してるそうです。

水族館裏に防空壕跡は有りました。
室蘭は軍需都市として重要な役割があった都市で、道内で唯一米軍の艦砲射撃を受け
多くの犠牲者が出た悲しい歴史があります。

内部です、向こうに何故か観音様が。

道の駅に寄って見ました。
白鳥大橋記念石、工事の際引き上げらた記念だそうです。

道の駅2階には大橋に関する説明コーナーが。
大橋を支えるケーブルです。

道の駅から白鳥大橋です。

室蘭は坂の街でも有ります、小樽に似てる。
小橋内町がそんな街並、砲台跡が有る情報で歩く事に、曲がりの多い坂、坂。

鉄の街、工場が遠くに見えて来ましたよ。

何度か地元の方に砲台跡を聞きながら到着。
正式には『15センチ加農砲掩体跡』
一面ツタで覆われた異様な雰囲気の建物が表れた、西側の噴火湾から敵艦隊
を迎撃するため、口径15センチの大砲1基が納められていた。

実際は艦砲射撃は東側からあり、この大砲は一度も使われずに終戦となったそうです。
戦後は20年間ほど住居として使ったそうですよ。

帰り道です。

道の駅出発、大橋入り口。

白鳥大橋車内から。 室蘭市とのお別れ。

今回は室蘭市の歴史を歩いた感じですね、地球岬等観光地も多く有ります。
次回は観光地めぐりですね。
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- 2014/11/26(水) 12:19:22|
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イチョウ並木道、夜のライトアップ風景撮影初挑戦してみました。 11月1日 過去ログ
報道で11月1日、2日の二日間だけライトアップされるニュース、天気予報を見ると
2日は雨、1日しかチャンスが無い、私には夜景の撮影経験がほとんど有りません。
日本一周ぶらり旅で、九州和布刈公園で車中泊関門海峡下を通る舟と対岸の下関の夜の
夜景が素晴らしく、沢山撮りましたが全部失敗。 それ以来夜景は撮ってません。
私の技術では、三脚を使わないと無理だったようです。
そんな話を聞いた、義理の息子から三脚をプレゼントされ夜の北大に出陣と成りました。
ライトアップは5時〜7時、 4時30分頃には到着。
そんな、状況の挑戦写真です、ガマンして見て下さい。
北大中央通りから東側にスタート。 人、人、人 でした。

5時ライトアップ時点では、北大構内で仕事関係の車がまだ多く
通行する事が分かりました。 ここでまず反省、早すぎた。

道路、歩道は黄葉の絨毯です。

この辺りで少し冷静に成り、皆さんの三脚の使い方を参考に見るようになる。
照明の場所と、撮影位置によって影響が大きいですね。
時により黄葉で無く成る。

照明の位置により、黄葉の色が変わる。

車が時々通過、三脚を持ち通路と歩道をウロ、ウロも多い。
この辺は木の葉が少し寂しくなってました。

落葉してません、黄葉も素晴らしい。

約70本のイチョウが有るそうです、東に進んで来ました。
車も人の流れも少し落ち着いてきましたよ。

三脚の使い方も大分慣れてきました。

このイチョウはグットタイミング。

いい色です、自己満足。

撮影場所とライト位置でこんなに変わります。

大分時間過ぎましたが、人は減りません。
皆さん最初は混雑するので遅めの出動なのでしょうね。

北海道大学と言えばクラーク博士の『少年よ、大志を抱け』を残して帰国した
と言い伝えらてますね。 クラーク博士の銅像は北大校内と羊ヶ丘公園に有ります。
昨年、島松駅逓所を見学この言葉には新しい説が有る事を知りました。
島松駅逓所は、札幌市と千歳市の中間ぐらいの集落です。
この駅逓所の取扱人が、中山久蔵で原野だった島松沢に入植米作が不可能とされた
土地でチャレンジ、明治6年の秋初の収穫に成功した人でした。
当時は、道南地方の温暖な所でわずかに米作をしてただけの時代だったようです。
クラーク博士が帰国の際、この駅逓所で一泊札幌から見送りの学生と最後のお別れ
の場所となった所です。
その場でのお別れの言葉が『少年よこの老人のように、大志を抱け』
老人とは当然、寒冷地米作りの父となった『中山久蔵』ですね。
島松駅逓所はここです。 北海道で多く有った駅逓所の中で現存する6箇所の
一つです。
ライトアップ夜景初挑戦のブログになりました。
訪問いただいた方、ありがとう御座いました。 まだ、まだ勉強が必要でした。
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- 2014/11/23(日) 11:10:54|
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北大イチョウ並木道黄葉、市内の道庁前広場が高層ビル工事にともない工事閉鎖
されてましたが完成オープンされ歩いてきました。 10月31日 過去ログ
北大は札幌市北区、市の中心地に広大な面積のキャンパス、北海道らしい原生林を思わせる
林が多く見られます。観光客の散歩も多い。
大正7年開学ですが、前身は明治9年設立の札幌農学校ですね。
街路道の無い部分が北大校内、市中心部で広大なキャンパスが想像できますね。
市内ホテルから、観光客の散歩が多いのも理解、外国人が多く成りましたね。
中央通りから東側方面です。左側の工事壁がアングルとしては残念。

通路は黄色のジュータン、少し遅かったのでしょうか。
タイミング難しいですね。

並木道は、北13条通り両側東西約380㍍にわたってます。

70本のイチョウ、10月下旬から11月上旬に黄葉し、多くの人が訪れてます。

北海道道庁赤れんが前、北3条広場が高層ビル工事で長らく閉鎖されてました。
それに伴い広場もリニューアルされ完成オープンされましたよ。
通りの愛称を市民から応募『アカプラ』と決定されたそうです。
『赤れんがプラザ』『赤れんが広場』を意味してるのでしょうね。
駅前通りから道庁方面の『アカプラ』

アカプラを歩いてきました。

オシャレなオープンカフェーができてましたよ。

赤れんが近くになりました、中央付近で外国人観光客が大声で長時間
の会話、 道庁写真には絶好のアングル場所写真を撮りたい人はウロウロ。
楽しそうですが、こんな場面を多く見かけますね。

道庁赤れんが庁舎入口。

赤れんが庁舎側通路までオープンカフェーが続いてましたよ。

札幌市北区広報HP に並木道が、 お借りしました。
すばらしい。

札幌市内は高層オフイスビル、高層マンションの新築で変貌が激しい。
ますます、人口の札幌一極集中が進む、地方創生どう進むのでしょうね。
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- 2014/11/20(木) 10:46:20|
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旭川駅前、西武デパート市民ギャラリーで友人小沢和雄氏の写真展開催。 11月10日 過去ログ
以前、札幌市でも開催されましたが今回は故郷開催、友人に逢う楽しみ、作品の楽しみ
故郷散歩の楽しみで出かけました。
旭川市は旭山動物園で全国区の話題に、成ってますね。
北海道の交通、鉄道、車共重要な基点の市でも有ります、鉄道は名寄、稚内方面の宗谷線。
北見、網走方面の石北線。美瑛、富良野の富良野線の基点の駅でも有ります。
車も旭川市内で札幌からの12号線が、市内で稚内方面の40線と石北峠越えの網走方面の39号線
富良野、十勝方面の237号線の基点でも有ります。
旭川駅裏に道の駅あさひかわが有ります。車のお世話になりそこから歩きました。
散歩気分で歩ける距離ですよ。

道の駅付近は公共設備が多い、道の駅前にも巨大な大雪アリナー。

駅が見えて来ました、忠別川をクリスタル橋で渡る、少し川上には氷点橋が見えました。
昔はこの、二つの橋は無く駅裏の集落には遠くの橋を利用する事に成ってましたよ。
便利になりましたね。
私の田舎は、この忠別川を約7㎞ほど上流の位置ぐらい、子供頃泳いだ記憶の有る
懐かしい川です。 秋には鮭の溯上が有りましたよ。

旭川駅正面です。ガラス張りホームには入りませんでしたが高架で見晴らしよさそう。

駅に入ると最初に目に入った石の作品? 札幌駅に似てる。

駅前風景です、右の西武デパートが小沢氏の会場です。

小沢和雄写真展『いつか見た海』会場。
小沢さんの写真歴は長く、知り合った頃からカメラ持参してましたから55年以上
に成る方です。

今回の写真展の主旨が、 昭和39年〜平成9年長年愛用のモノクロフイルム
の作品を銀塩プリント、暗室作品でした。

会場風景、広く多くの作品を楽しむことができました。

私には、昭和30年代日本海から鰊の姿がが消えた漁師の姿を想像
させる作品に目が止まりましたね。 貴重な歴史記録でしたよ。
私も、最近北海道の明治期からの開拓歴史、駅逓所、炭鉱産業遺産等興味を持ち
ブログ投稿などしてますが、参考になりました。

小沢さんとも、久し振りで話も有るのですが会場入場者でゆっくり
話の時間がなく残念、
駅前通を歩くことに、故郷帰省しても市内を歩くことが有りません。
駅前通は、平和通と私は表現しますが、買物公園共、平和通買物公園共表現いろいろ
有るようですね。

買物公園は昭和46年日本初の歩行者天国として駅前から約1㎞
を買物公園としたのですね。 当時五十嵐広三市長(37歳)後の衆議院議員
平和通商店街の不安高く、12日間の社会実検をしたそうです。
これが大成功、平和通が人で一杯になったそうです。
何故か裸婦像が多い。

久し振りの市内散歩、故郷気分に浸ってましたね。
ここ、平和通は私たちより年代上の方は『師団通』と呼ばれていた時代もあったようです。
終戦前には、陸軍第七師団が有り旭川駅から師団まで隊列を組んで行進の風景から師団通
と呼ばれる通りになってたのでしょうね。
平和通にもいろんな歴史が刻まれてますね。

メタボなオジサン。 ネコの表情がいい。

このビルは昔から有ったように記憶してますが。

かなり歩きましたが、買物公園は奥まで整備されてました。
動物園見学の客が、旭川市内に宿泊この買物公園を歩く人が増えると良いですね。

旭橋近くに、姉妹都市のモニュメント広場が。
アメリカ、イリノイ州の都市でした。札幌市でも大道公園に有りました。

広場が公園の通りに成ってました。

買物公園最終地点まで来ましたよ。 駅方面です、何を表現してるのかな?

旭橋近くの国道40号線に、ロータリーが有ります、私は昔ここで何度も
にがい経験をしてます、出口を一本違うと当然とんでもない方向に、それからここを
避けてます。 カーナビならどんな案内するかは分かりませんが。

ロータリー風景、皆何事もなく通過私がドジだったのか!!

レトロな建物にやっと出会う、昔は常盤商店、右書き。 屋号角、北と右壁上にある。

国道40号、旭橋が見えてきました。北海道遺産に指定されてます。

旭川市内を横断する石狩川を渡る、交通の大動脈だった橋です。
昭和7年に完成してます。建設費100万円、時代の変化を再確認しますね。
鋼材はドイツから輸入、48万本以上のリベット接合で現在でも強度は問題ないそうです。

実に美しい姿ですね。
この橋を渡って行くと昔は師団司令部が有り、兵隊はこの橋を隊列を組んで
入隊、配属で行進したのですね。 その時代は師団橋と呼ぶ人がいたそうです。

石狩川です、下流を見てます。 この先旭川で忠別川、美瑛川と合流。

旭橋の近くには、常盤公園が有ります。 学生時代以来の散歩です。
旭川市内には、以外とこのような広い公園が少なく市民の貴重な憩いの公園になってます。

池の鴨も冬支度の季節ですね。 完全凍結池ですから、旭川は内陸性気候
で寒い。

紅葉、黄葉から落葉に入りました。

広い公園です。

上川神社頓宮です。

駅まで戻ります、途中市民が表現する3・6街 を歩く、旭川の歓楽街ですよ。
3条6丁目近辺と言う意味ですね。

私の社会人は旭川以外ですから3・6 街は知りません(笑)

歓楽街にもレトロは残ってました、ホットしますね。

小沢和雄氏の写真展鑑賞のお陰で、懐かしい市内中心地を歩くことかできました。
風景はオシャレに変わってますが、故郷の香りは残ってる感じがしましたね。
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- 2014/11/17(月) 11:47:10|
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札幌市内の初冠雪です、今の時期として記憶にない感じの大雪。
昨日は日本列島が、寒い袋に囲われたようですね。
札幌市は22㎝ 、道北地方では40~45㎝ の所も、湿度の高い重い雪除雪に苦労ですね。
マンションから札幌駅方面、一気に銀世界です、週間予報を見てもこれが根雪かも!!

車も可哀想、重い雪に耐えてます。

北海道はこんな風景がスタートしたばかりですね。
重い雪に枝が折れたり、時には北電の電線が切れて停電なんて事もあります。

大切な庭の花、木には何処も囲いをして保護してますね。
最近多く成ったと感じます。 何十年ぶりの自然災害、地球規模で考えられない
ような災害報道を聞きますね。 地球の怒りかも知れません。
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- 2014/11/15(土) 11:05:33|
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浜益区は江戸時代には『ハママシケ』と呼ばれてたそうです。 10月12日 過去ログ
市街から、国道231号線を北に進むと郷土資料館の入り口が目に入ります。
浜益区には、浜益温泉に何度か来てる、浜益川の上流でヤマメ(アマゴ)が釣れパール
マークを求めて来たことがありました。
『はまます郷土資料館』の建物は、明治〜昭和20年代の鰊全盛期に網元の白鳥家が明治
32年に建てた鰊番屋でした。
昭和30年代鰊の姿は消え、廃屋同然に成ってたそうです。 昭和46年に開村百年の記念事業
として、補修浜益郷土資料館として公開をしたそうです。
日本海側には、このような鰊に関係する、歴史の建物を見ることがありますよ。
有名なのは小樽の旧青山家住宅、鰊御殿ですね。
最近鰊の明るいニュースを聞くように成りましたよ。3~5月鰊の産卵で海岸近くで
海面が乳白色になる『群来』 くきの現象が報道されてます。
実際漁獲量も増加傾向、嬉しいニュースですね。 関係者の努力があったのでしょう。
資料館到着、厳しい日本海が目の前。

玄関を入ると土間を挟んで左に漁夫の居住区、右が網元の居間が配置。

親方の居間。

左は漁夫の集団生活の間。

親方の部屋、土間を挟み漁夫と共同生活ですから仲間意識が高かったでしょうね。
親方の方には、奥に二部屋の座敷がありましたが。

館内には、鰊の漁具のほか考古資料、生活資料など浜益の歴史を伝える
資料も多く展示、地元の歴史有る方からの寄贈品も多く有りましたね。

漁夫寝床部屋、壁側がぐるりと2段ベット方式、山小屋風ですね。

寝床の仕切り段には、『定』書きがあります、各人の役割も書かれてました。
上下関係も厳しい時代だったのでしょうね。

鰊の沖揚げ風景、モッコ背負いで大正初期です。

ウインチが立ち並ぶ群別の浜、大正12年頃。
作業方式も進歩してきたのでしょうね。

分かりづらいですが、定置網風景です。
現在の鮭定置網方式に似てますよ。

親方の居間。

山岡鉄舟の自書です。『茂生学校』とある。

動画。 明治4年製柱時計。 30秒。
明治維新後4年、 現役で時を刻んでました。
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VPS 蓄音機、 右大正初期。
タイプは違いますが、小学校時代の学芸会を思い出しましたね。

電話機、さすがにこれは記憶にございません。

資料館前を浜益市街方面です。

浜益川まで戻りました、
荘内藩陣屋まで浜から小舟に積み替え運んだ
川になります。途中で千両堀を通りますね。

鮭釣りシーズンでした、 河川での鮭釣りは禁止ですがこの川は入漁料
を払えば可能の川のようですね。道東にも有りますよ。

岡島洞窟遺跡の情報があり見学。
縄文から擦文文化まで約6000年前の居住地がここ浜益区の日本海に
想像もできない歴史が、どこに有るか分かりませんね。
洞窟は道路工事で、約6㍍短くなったそうです、どうしてそんな工事許可したのでしょう。
残念。 白いコンクリート塀の向こうが洞窟です。

人骨、土器、石器など多数出土してます。

危険防止で柵があります。
驚きはこの洞窟から、オホーツク土器も発見されてることです。
オホーツク土器は、道南の奥尻島でも発見されており、オホーツク人はここ
岡島洞窟を経由して南下したと考えられるそうです。

昭和20年終戦前後の記憶では、鰊の季節になると田舎でも鰊を箱で買い求め
開いて干したり、ぬか漬けにしたりを見てた記憶があります。
この日本海から運ばれてたのですね。
歌。 石狩挽歌。 北原ミレイ。
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- 2014/11/14(金) 11:22:50|
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※ 昨日、友人小沢和雄氏の写真展が旭川市で開催され見させて貰いました。
故郷が旭川近郊の田舎ですが、久し振りに市内を歩いて来ましたよ。
帰省しても市内を歩いて無い事に気づきながら散歩、写真展、市内の懐かしい
(私には)風景後日紹介しますね。
♢ ♢ ♢
厚田区を過ぎ、浜益区方面に北上札幌市から浜益区まで約80㎞と近い。 10月12日 過去ログ
浜益は、江戸時代にはハママシケと呼ばれてたそうで地形上、鰊、ナマコ、アワビ、
サケ等漁業が中心だったようです。
国道231号線を北上送毛トンネル手前で山道、市道毘砂別(びしゃべつ)送毛線に入ります。
砂利道を海側に進むと20軒程の集落が中山間地海岸近くに有る。

歩いて見ました、古いお墓が有り長い歴史が有る集落と想像ができる。

港も無い、舟も無い、漁業の様子を感じない。
鰊の時代に集落が出来、その後厚田、浜益に通い漁師さん? 私の想像。
一軒だけ、回りの風景と違う家が有る、奥に見える別荘風の家、若い御夫婦が見えましたよ。
そんな集落。

海岸線を歩いて見ましたよ、漁師さんの作業小屋が有りましたが生活感
は有りません。 奥から集落方面です。

目的の千本ナラコースに戻る。案内板が有りました。
4,7㎞ 砂利道ですから遠く感じますね、でも昔を思い出し走りますか。

気持ち良い砂利道でしたよ、 サルナシ(コクワ)の木を発見、沢山実をつけてる。
でも高い、つるを引っ張ると来年から実をつけなく成る。
来年は脚立を持って再来??

大分昇って来ましたよ、左に見えるのが国道231号線です。

一部舗装も、高度が上がると紅葉が癒してくれましたよ。
後で分かったのですが、千本ナラだけの見学なら毘砂別側から入ると全舗装ですよ。
締まった砂利道ですから、山道一周お勧めですが。

千本ナラに到着です、ほぼ山頂看板が有りますから安心。

場所は。
日本海の崖の上直ぐ、吹き上げる風のため、枝が多数に分かれて姿が、千本も生えてる
ように見える事から呼び名がついたそうです。御利益のある木、御神木として年間3000人
もの訪れが有るそうですよ。

樹齢800年のミズナラ、根元を見れば風雪に耐える力強さを感じます。

近くにあと2本並んでましたよ、合わせて3千ナラ?

一番元気そうなナラ。

元気な理由はこの根ですね、何事も土台が大切。
向こうに日本海のブルーが。

千本ナラ以外は普通の林なんですが、何故この3本だけ残ったの?
そんな事考えて歩いてましたね。

人里離れた山道に、神社、稲荷神社? 小さな鳥居が。
ありがとうと参拝してきました。

ようやく、毘砂別の集落が見えてきました。
浜益区手前の集落ですね。

浜益区到着、目的の荘内陣屋跡を歩くことですが分からない。
事前に調べてた所を歩いてると八幡神社が、参拝。

荘内藩の鎮護として建立されたそうです。

参拝後、ご夫婦に会い荘内藩陣屋跡の場所を聞いて見ました。
感は良かったのですね、八幡神社鳥居の右側の雑草道を行きなさいと教えられる。
陣屋跡にようやく到着です。

国指定の史跡、幕府から命ぜられた荘内藩は、現在の川下地区を開拓し陣屋
が設けらたのです。陣屋の周囲は木の柵で囲われ、内部には奉行所、長屋、米蔵
などが並んでたそうです。
いろんな職種の人が居て医者も2人いたそうです。 総勢200人体制が組まれてた。
北方の開拓、警備とはいえこの厳しい所での陣屋の必要性を考えてしまいました。
陣屋側から浜益集落方面です。

浜益は以外と水田地帯でしたね。

陣屋の場所を教えていただいたご夫婦から少し話を聞く事が出来ました。
本州から船で運ばれる荷物は、現在の浜益川を小舟に積み替え、さかのぼり途中で
陣屋下まで堀を作って運んだそうです。
堀は段差が有り、水位を上げながら移動、工事には多額のお金が掛かったそうで
地元の人は今でも千両堀と言ってるそうですよ。
現在は水田の用水路に成ってますが、この水路が千両堀です。

陣屋跡面積167,000平方メートルと広大、現在でも土塁や標柱が
有るそうですが、雑草が多く歩くのは諦めました。
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- 2014/11/11(火) 11:49:58|
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石狩市は札幌市の北に隣接の市、平成17年から旧厚田村、旧浜益村と合併
その結果南北に長い日本海に面した市です。
市の西は石狩湾に面し、南部で石狩川河口と成ってます。
明治期以前は和人とアイヌの家も多く鮭魚がさかんだった記録があるそうです。
明治時代に入り愛知県、石川県、高知県などから移住者が入り、本格的開拓が始まってます。
石狩市開拓の歴史を見る時、行政地(昔は役場、現在は市役所)の移転が有ります。
開拓時代の行政地。
現在の船場町の当たりだったそうです、石狩川沿いに面し鮭魚の中心地、大河川石狩川
河口を利用し、内陸部の木材を道外へ運ぶための木場が作られ重要な場所だった。
当然そこに行政地が有ったのですね。
時代は変わり、平成5年札幌市に近い花川北に市役所は移転してます。
昭和42年石狩新港湾建設形画、 札幌市に近い花川地区に新札幌団地分譲開始
地域開発形画で、札幌市に近い石狩湾沿いに工場誘致が始まり、石狩市は大きく変貌
した時期のように思います。
開拓期から続いてた行政地から、現在は一変し札幌市のベットタウンとも成り、札幌市に
通勤される方も多いようです。
工場誘致も、少しづつ進んでるようですよ、石狩港の荷物取り扱い量も全道で4番だそうです。
LPG基地が有り、LPG発電所計画も有り、まだ、進化をとげようとしてる街です。
現在の市役所場所です。
上の地図で、明治期からの行政地は石狩川河口に近い所ですから、石狩市
の産業の大きな変化が想像出来ますね。
旧役場の有った弁天町から先の灯台方面を歩いて来ました。
石狩市弁天歴史公園資料館です。

江戸時代末期から資料が有りました。

石狩八幡神社です。
石狩川の反対側の八幡町に安政5年に建立、町の中心が船場町(旧役場の有った所)
に移ったため明治7年に現在地に建立されてます。

大河川石狩川堤防です。日本海に向かい左岸。

河口灯台が見えます。

場所に寄り、まだハマナスの実が見られましたよ。
日当りで、こんなに色づきが変わるのですね。

左岸から石狩川。

海岸に出て見ました、 サケ釣りです。
日本海側の成績はあまり良くないそうです。 私も昔5年程熱中した時期が有りましたね。
オホーツク海ですが。 懐かしい光景に会いました。

河口に向かう半島の中程に『石狩–無辜の民』(むこのたみ)の石像。
本道出身の彫刻家本郷新の代表作、 作品の思いが書いてありました。
ふきすさぶ時代の風に向かい、生き抜く名も無き人々に熱いまなざしを注いでいたそうです。
戦乱や干ばつなどで、生きる自由をうばわれていく姿を、悲痛な形態で表現された作品。
石狩を愛した本郷氏はこの地に設置されることを切望し実現されたそうです。

旧長野商店、 石狩市指定文化財。
創業期は明治7年。 石狩市の古い歴史を見るにはこの地区にしか
有りません、現在の市役所方面には現代社会風景。

移動して、石狩河口橋の見える所へ。

本流です、水量の多さに驚きます。

この位置が一番石狩川の大河川の雰囲気が分かりますね。
道央の大雪山を源流とした、石狩川は多くの河川と合流大河川となって日本海へ。
美瑛川、雨竜川、夕張川、千歳川、等々。
昔は川魚、特にヤツメウナギなど盛んだったそうですが、最近は減少だそうです。

国道231号線から厚田区に向かい、海岸線寄りの枝道に入りました。
そこは、目の前が日本海急な崖の上になります、嶺泊地区に別荘地(?)のような
集落が有ります。少し歩いてみました。

北方面、浜益区方面ですね。冬は北海道でも一番厳しい北風が想像できます。

札幌市は車ですと、通勤圏の範囲そんな方も、 夏だけ別荘感覚、週末別荘。
いりいろ有りそうですね。
海を眺める工夫の家です。 でも楽しそうですね。

厚田区に到着です、昔は厚田村ですね。 にしん街道の看板。
この場所は、夕日の公園として素晴らしい夕日が見られますよ。

厚田港では、チカ釣りのシーズンでした。釣れてましたよ。

厚田港では昔から港で朝市が有ります。
札幌から来る方も多いそうです。

私も何度かドライブで、来たこと有りますが、シーズンにより
安い魚が買えますよ。

夕日の丘から厚田港。

北の浜益区方面海岸、トンネルの多い国道が想像できますね。

石狩市は鉄道の通ってない市として珍しく、長年の課題として検討されたそうです。
現在は札幌から、地下鉄の延伸などの話が出ますが難しそうですね。
市名の由来はアイヌ語で、イ•シカラ•ベツ 回流(曲がりくねった)川と
中流のアイヌによる説が有るそうです。
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- 2014/11/08(土) 11:57:59|
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国道38号線を北上、一番北の位置ぐらいの所に成ります。
夕張市は、実に細長い中山間地の地形が現在は生活圏になってるようです。
それだけに、行政費用の効率化が悪いと言われてます、道、国財政再建の短縮
に、協力体制の強化出来ないのでしょうか、歩いてそんな感じを受けました。
石炭博物館は、一度20年前ほど訪問してますが現在も立派に維持管理されてる
のに感動しましたね。 以前より強化されてる所もある。
全国的に、産業遺跡が注目されてる時期、夕張も注目の施設になると良いですね。
場所です。
石炭博物館に到着です。広い駐車場、無料。
空知地方の他の炭鉱に比べ、夕張市の炭鉱発見は自然条件の厳しさから明治21年
に石炭の露頭が発見されスタートしたのが始まりでした。

竪坑ケージが見えますが、後で体験する1000㍍地下坑内に入るエレベーターです。

立派に整備管理された博物館です。

博物館前には、夕張の石炭のもとになった、約5千万年前密生してた『メタセコイア』
の木が植えられてました。

館内に入るとまず、巨大な黒いダイヤが展示。
夕張の石炭は、良質でカロリー高く光沢も強いことから『黒いダイヤ』とも呼ばれたそうです。

メタセコイアの巨木等、5千万年前の夕張を想像した復元風景です。

博物館は坑道産炭風景説明前に、歴史説明の場所があります。
炭鉱開発初期時代の、坑内員の風呂風景です、 厳しい作業が浮かびますね。
この人達によって当時は支えらてたのですね。

この当たりから産炭技術の変化が分かるように成ります。
初期の手掘り風景。

火薬を使う時代になり、『ハンマー』と『たがね』で火薬を入れる穴を掘ってます。

初期には坑内で馬も活躍、『馬引運搬』が有ったそうです。
坑内には馬小屋も作られ、1週間で地上と交替したそうです。

ここから、昭和中期頃になるようです。

空気圧が導入され、コールピックが使われ手掘り採炭に比較能率が向上
の時代に入ります。

坑内で使う支柱は、木製からドイツ製の鉄柱カッペに切り替えられ、強度
と組立ても簡単で省力と安全に寄与したのですね。

発破の穴あけも、圧縮空気による動力が導入、手掘りの穴もみから
飛躍的に能率向上の時代に入っていきます。

炭山まつり風景が有りましたよ、 5月だったそうです。
皆、昼夜を問わず山から沢から、祭りの花火に誘われて街にあふれたそうです。
この風景は昭和30年頃だそうですよ。
この写真記録を見て、先にあった坑内員の風呂風景で感じた気持ちが少し和みましたよ。

坑内も近代化に向かってます。
夕張の炭鉱数は戦後は20を越え、人口も昭和35年には12万人に増加、道内炭の20%
まで成ったそうです、 市内には17館の映画館があったそうです。

切羽の最前線、奥右の円形カッターが回転石炭を切り落とし、ダブルチエンコンベアー
で送り出すシステム、 人が近づくと自動的に巨大な音をたて運転状態を見せてくれますよ。

ここから、史蹟夕張鉱に入ります。
キャップランプの付いたヘルメットで、真っ暗な地下1000㍍の坑道跡に
入ります。

文化庁登録有形文化財に成ってます。

明治33年に北炭が第3斜杭の一部として使った坑道だそうです。
昭和55年『夕張石炭の歴史村』の建設形画のひとつとして坑内作業の移り変わりを
知ってもらうため整備され『史蹟夕張鉱』としたそうです。
ヘルメットとキャップランプで1000㍍地下へ。 入口です。

上添坑道と言って採炭切羽を作るとき一番初めに掘る坑道です。

高圧空気でピックを使い、ハッパの準備中。

採炭作業の現場です。 ロング採炭方式と言うそうです。
ロードヘッターが炭壁を崩していきます。
崩された石炭は『ダブルチエーンコンベア』で運ばれる。

坑内安全設備が見られます。

坑道から出る水を排水するポンプです。

『タヌキ堀り』の説明がここにも有りましたよ。
明治末期から大正初期に行われた採炭のようすです。炭質の柔らかい堀やすい
ところから堀、堀った坑道が不規則に曲がり、タヌキのねぐらのようになるので
タヌキ堀りと言われたそうですね。

『史蹟夕張鉱』を出たところに、石炭の大露頭を見ることができます。
明治21年、道庁技師の坂本太郎の調査で発見された約7㍍の厚さを持つ大発見でした。
昭和49年に、北海道の天然記念物に指定されてます。

夕張市の散歩、最後に素晴らしい産業遺産を見ました。
維持管理も大変と思いますが、最近産業遺産が見直され市町村再生の起爆剤
に成ってるところも有りますね。
実際の坑道、採炭現場を見学できるところは、全国的にも貴重ではないでしょうか。
大切にし、全国ブランドの夕張メロンと同時に頑張ってほしい。
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- 2014/11/05(水) 15:01:46|
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北国札幌市では、ついに冬の季節に入りました。
昨日市内平地でも、積雪は有りませんでしたが白いものが舞ましたよ。
近郊の手稲山、今年の初冠雪は10月28日でした。
冬将軍どんどん、南下しますよ寒さイヤと言う方今から心構えを、私もですが。
手稲山の初冠雪。

藻岩山を含め低い山も、薄く雪化粧です。

札幌は約半年の長いシーズン突入です。 初冠雪の報告でした。
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- 2014/11/04(火) 16:51:18|
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夕張鹿鳴館は、北炭(株)が全盛を極めた大正2年、当時の技術の粋を集めた
和洋折衷建物です。 当時は『北炭鹿の谷倶楽部』と言われてたそうです。
昭和天皇、皇后陛下も御宿泊。 北炭(株)高級幹部や来客として昭和58年まで
使用されていた。
現在は鹿鳴館として、レストラン、宿泊設備を完備一般客を受け入れてます。
レストランは、ランチ、デナー共高級感の有る料理のようです、館内見学も出来ますよ。
入場 500円。 見学の価値有り。
新夕張から国道38号を北上、JR鹿ノ谷駅近くに成ります。
場所です。
伝統の入口看板が有ります。

鹿鳴館前公園広場です。整備は完璧では有りませんが全盛期を感じさせる
所は十分です。

費用が出ないのでしょうか、少し手を加えれば素晴らしいのですが。

正面玄関です。ここからは、館内の素晴らしさは想像出来ませんでしたね。
正直なその時の気持ち。

玄関ホール、 重厚な重みをここで感じる。

玄関ホール、置物。

天皇御宿泊場所に向かう廊下に成ります。
大きな建物、その建物一帯は見学用に成ってます。 レストラン、宿泊場所は別建物。

和室。

寝室に使われたと思われる部屋。

応接の間。

会議室。

天皇御宿泊部屋前廊下から眺められる大庭園です。
春はエゾヤマザクラ、初夏にはバラ、秋の紅葉も素晴らしいそうです。

別の所からの大庭園。

廊下から眺められた中庭。

別棟に向かう廊下、そこは光の回廊でした。
私には初めての体験、感動でした。

トンボのステンドグラス。

2階に向かう階段です。 これこそ光の回廊。
約150点のステンドグラスが配置されてるそうですよ。

階段手前。

コーナーが有り、さらに階段を昇ります。
この当たりから、写真を撮る気持ちが何時もと違う自分に気ずく。
ステンドグラスだけの明かり、旨く撮れてるか心配に成る。
経験の少ない場面、技術も無いそれだけに不安に。

心癒される間が有りました。

もう一面。

全盛期の北炭(株)の姿が想像出来ますね。

現在はエネルギー環境が変わり、社会を騒がせてますが。
明治期から昭和の時代まで、日本産業の土台だった炭鉱時代が全国に有りましたが
その栄枯盛衰をここ、夕張鹿鳴館で見た気がしましたよ。
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- 2014/11/02(日) 10:49:18|
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