札幌市から国道274号線で約1.5 時間くらいで新夕張、ここから国道452号線に
入りまもなく、南部地区です。国道452号線は直進で芦別、富良野方面。
今日は、夕張川沿いを紹介しますね。
夕張市を歩いて見て、石炭の都として栄華を極めた町夕張、閉山後時計の針が止まった。
平成2年南大夕張炭鉱が閉山、市内すべての炭鉱が閉山と成った時です。
全国的な報道と成りましたが、平成19年財政再建団体となり、現在東京都庁から来た
若い市長さんを、先頭に市民一丸となり頑張ってる市です。
市民サービスの低下、職場減等から人口減が有り苦労されてる報道があります。
頑張ってほしい。
夕張市の炭鉱開発の歴史、少し紹介します。 (Wikipedia)
北海道炭鉱汽船(北炭系)が開発した新夕張炭鉱、夕張新炭鉱、平和炭鉱、真谷地炭鉱
三菱鉱業が開発した大夕張炭鉱、南大夕張炭鉱が有りました。炭鉱に関連する会社も多かった
でしょうから、まさに炭鉱の都と表現された町が分かりますね。
滝ノ上公園から移動、清水沢駅集落で丁度昼時、オシャレな店が有ったので昼食、『めぐみ』
パンも作ってる店のようでした。

ビーフカレー美味しかったですよ。

清水沢の集落から国道452号を走るとまもなく、清水沢ダム。
清水沢ダムは、発電専用の目的でしたが、上流に大夕張ダムが完成後はダム直下の発電
と農業用水確保の役目もしてるそうです。

場所は。 この辺りです。
ダムは車で通行出来ますが、林道に入るだけのようでした。

最近見るダムとは、違う構造に感じました。

ダム湖方面ですが、あまり良く分かりませんね、すみません。

ダム直下には中島が、硬い岩盤なのでしょうね。珍しいそうですよ。

ダム堰堤から見える、大正15年完成した旧北炭清水沢火力発電所です。
発電用石炭は当然自家炭、地産地消ですね。
本当は近くまで行きたかったのですが、入場禁止でした。
当初は6000キロワットの発電量が、次々増備され5台の発電機で最大74500キロワット
まで出力が有ったそうです。送電網は幌内、歌志内、赤平方面まで達したそうです。
いずれも炭鉱地帯ですね。 当時の炭鉱の発展が想像できますね。
平成3年廃止、現在解体工事中だそうです。

中島と発電所。

解体中の発電所。

全盛期の発電所風景。 (Wikipedia)

国道452号線南部地区に三菱大夕張鉄道南大夕張駅跡が見れました。
旧南大夕張駅跡。
明治44年開通、昭和62年まで活躍、石炭のみならず住民の貴重な足でも有ったようです。

ホームです。

客車、昔を思い出しますね。
昔は、タバコ自由、長距離列車は座席下はゴミ、日本もそんな時代が有りましたね。

上流には新しく夕張シューパロダムが建設され、現在貯水テスト中です。
満水状態に見えましたよ。 農業用水不足対策、夕張川洪水調節用としての役目だそうです。
シューパロダムの上流には、大夕張ダムが昭和37年に建設されてましたが役目が不足状態に
成ったそうです。 同時に有った二股発電所と共に湖底に沈んでしまいました。

天気が良ければ正面が夕張岳方面に成ります。
『シューパロ』の語源はアイヌ語で『本当の』を意味する『シ』と。『鉱泉の湧出する所』
を意味し夕張の語源となった『ユーパロ』と合成したそうですよ。
シューパロ湖は日本第4位の貯水量となり、発電、農業用水、上水道と多目的ダムとなります。

シューパロ湖の湖底に沈んだ地域には、かなりの集落が有ったようです。
ダムを眺められる高台に湖底に沈んだ学校の碑が多く有りました。
鹿島東小学校の碑。

鹿島小学校碑。 思い出に校歌も刻まれてました。
太古の森をきりひらき うもるる宝かえさんと
力よほまれよ血のひびき きたわんかいな
ああ大夕張

鹿島中学校閉校記念碑。 開校昭和22年、 閉校平成8年。
卒業生 9237名。

夕張東高等学校記念塔。 校歌。
千古の緑夕張岳の 色映ゆふもと鹿島の丘に
真理の道やはてなき夢を
求めてやまぬ 若人誰ぞ ああ健児が集う東高校

満水前であれば、この方向下流に三弦橋が見えるのですが、来るのが遅すぎた。
大夕張ダムの建設の時、夕張岳山麓に向かう森林鉄道として昭和33年に完成したそうです。
特異な形式のトラス橋だそうです。 シューパロダム建設で大夕張ダムと同時に湖底ですね。

湖底に沈む大夕張ダム。

湖底に沈む三弦橋。 (Wikipedia)
夕張市役所に聞いて見ると、来年1月頃シューパロの水が抜かれる可能性も有るそうですよ。
実現されれば再度姿を表す。

国道452号線、南部地区体育館側に『南大夕張炭鉱殉職者慰霊碑』
昭和60年5月17日の炭鉱災害の碑でした。 お参りして来ました。

清水沢集落まで戻り、国道38号線を北上すると夕鹿の湯が、日帰り入浴可能です。

夕鹿の湯の駐車場近くに大煙突。
北炭化成工業所がコークスを製造工場の有った所で大煙突だけが残された、
昭和9年に開設され昭和53年に閉鎖されてます。 現在は夕鹿の湯のシンボル。
閉鎖当時は費用が掛かり残したのが、現在は貴重な炭鉱遺産に成ったのかな?

高倉健主演の映画のロケ地『幸福の黄色いハンカチ』

私も見ましたが、炭住街の場面でしたね。少し歩くようです。

時間が無く成り、遠くの黄色いハンカチだけ写真に納めて来ました。

三笠市とは違う夕張の炭鉱時代が想像出来ました。規模が大きいそんなイメージです。
ブログランキング、バナー下です。クリックよろしくお願いします。
- 2014/10/30(木) 12:35:46|
- 北海道
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
三笠市炭鉱遺産を見て来ましたが、隣り町の夕張市は現在再建自治体として若い
市長を中心に頑張ってる市です。
報道では、炭鉱閉山が重なった時代に箱物投資の方向が間違ったとの報道が多くされてました。
炭鉱の閉山後、市の方向をどうするかが大切だったのですね。
三笠を歩き、夕張を歩かないではいられませんね、三笠には無い素晴らしい炭鉱遺産が
有りましたよ。
国道274号線で、まず新夕張を目指します。この国道は帯広、釧路方面に向かう大動脈ですね。
物流の車が多いです。
道中の滝ノ上地区の滝ノ上公園を紹介します。
滝ノ上公園近くに発電所が有りました。

発電所近くのダム湖ですが、地図で見ると川端ダムと思います。
夕張川のダムに成りますね。

滝ノ上公園の案内です。 ここは何度も通ってますが始めての散歩。
何時も帯広、釧路、十勝方面の旅で通過するだけでした。
そんな、観光地有りますよね、地理的に、 どうやって客を呼び込むかですね。

散歩道紅葉の始まりですね。

夕張川の千鳥橋。

夕張川と風景に合った橋に感じました。

千鳥橋から上流を見る、千鳥ヶ滝です。
硬い岩盤と渓相素晴らしいですね。

橋を渡れば、遊歩道が有るようです。

橋から、木々の間から見える滝ノ上発電所です。
今回、この発電所を写真に撮る事が大きな目的でも有りました。
三笠市は炭鉱の歴史、夕張市は炭鉱と発電所の歴史でも有るのです。

いくら見ててもあきない。 札幌から近い所にこんな観光出来る所有ったのですね。

千鳥橋から下流です。

上流を別角度から。

千鳥橋を渡り、遊歩道を歩き下流の滝ノ吊橋へ。

揺れましたよ、 吊橋だから当然ですか。

滝ノ吊橋から下流です。

上流の千鳥橋が見えます。

散歩の方も多かったですね、紅葉のシーズンも有りますね。

滝ノ吊橋から上流。 いいですね。 竜仙峡とも言うのですね。

川の淵から、小さな滝が。

千鳥橋を別角度から。

滝ノ上発電所案内板。
旧北炭滝ノ上発電所で現在は北海道企業局滝ノ上発電所に成ります。
大正14年北海道炭鉱汽船株式会社が社内電力を、自家発電で供給するという、当時としては
画期的な形画だったそうです。
炭鉱閉山後北海道へ施設が譲渡され、現在は道企業局が管理してます。

千鳥ヶ滝の落差を利用現在でも2340Kw の電力を発電、赤レンガ造りの発電所は北炭
の全盛期の姿を象徴してますね。
現在工事中でした。

水車発電機の更新工事だそうです。大正時代の発電所を地球温暖化防止に
貢献しょうとしてるのですね。 平成28年には運転できるそうですよ。

この工事風景を見て、自然エネルギーの取り組みの素晴らしさを感じましたね。
特に赤いレンガの正面上の窓上部に昔をしのぶ北炭マークを見てその感を強くしました。
ブログランキング、バナー下です。クリックよろしくお願いします。
- 2014/10/27(月) 15:04:04|
- 北海道
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
三笠市の炭鉱歴史の中で、奔別炭鉱は最後に開鉱の明治30年でした。
それだけに、巨大で最新設備の炭鉱だったそうです。三笠市炭鉱で幌内炭鉱が明治15年、幾春別炭鉱
が明治18年でした。
完成当時は『100年採炭できる』と言われてたが、立坑開発で能率向上で深部化が進み、
暑さを嫌う鉱員が大量に退職、完成後わずか10年で閉山になったそうです。
皮肉なものですね、効率化とコスト低減策が炭鉱の寿命を変えた。
地域を支えた巨大な奔別炭鉱跡です。幾春別炭鉱は主に幾春別川に沿った所ですが
奔別炭鉱は、少し山側に入ります。
知りませんでしたが、奔別炭鉱は住友系で幾春別炭鉱は北炭系だったのですね。

まず目に入ったのが、巨大な立坑櫓でした。
高さ50,5㍍ 立坑内径6,4㍍ 深さ750㍍。 一つの立坑で鉱員、資材、石炭を
並行して昇降させる方式で、当時は東洋一の施設だったそうです。

巨大な立坑です。奔別の文字が残ってますね。

裏側です、巻き上げ部が見えますね。

これも巨大な炭鉱選炭場と貨車積み込みホッパーの有る設備です。
中央に見学用の通路が用意されてました。

ホッパー最下部には、貨車が3列入れます。とにかく大きい。

貨車レールの有った所を歩いてみました。
壁には、アートプロジェクト開催があり炭鉱設備が天幕で隠れてる。
少し残念な気分で歩く。

ホッパーから貨車に積み込まれる出口でしょうか。

3本有る貨車ホームの一本。

長い貨車ホームを歩き反対側に出ました。

選炭場建屋から立坑櫓。

建物内部の上部です、選炭場が有った場所と思います。
この下に貨車積み込みホッパーが有る。 立坑からここまでコンベアーで送られたのでしょうね。

全景です。

幾春別方面集落に成ります。

奔別炭鉱跡地からさらに山側に登った所に小学校跡地が有るとの事で
行ってきました。
森の道路脇に石碑が有りました、殉職者之霊碑と顕徳碑でした。
殉職者の碑は昭和15年に建立。 炭鉱は厳しい環境と事故も多かったでしょうね。

この直ぐ近くが元幾春別小学校跡地でした。
最盛期には、児童数は3600人を越えたそうです。いかに町が繁栄してたか分かりますね。
幾春別川沿いの多くは、炭鉱関係設備で使われ学校用地は無かったそうです。
それで、この高台地区に成ったのですね。 かなりの傾斜と距離でしたよ。
奔別炭鉱が出来てからは、幾春別小学校は北炭系、奔別小学校は住友系の従業員の生徒が
通学に成ったそうです。
小学校跡地です。 今は雑草の地、昔は子供の声が響いてた所ですね。

幾春別神社に寄って見ました。
分かりづらいですが、右側に古い歴史を感じる神社の石碑が有ります。

この階段の上です、キツイ。

炭鉱の歴史を見て来た神社です。

本殿です。 参拝。
最初は別の場所にあったが、明治31年に現在の場所に建てられる、奉納者に北炭社長
も加わっていたことから、地域住民と炭鉱事業の無事を願う神社の意味があったそうです。

帰りに千人塚史跡公園に寄る。 三笠市指定文化財。
明治15年空知集治監が開かれ、道路、農地の開墾、幌内の炭鉱など過酷な労働に
当たったのですね。 北海道の開拓の歴史には各地にそんな場所が多く有ります。
この墓地は集治監開館と同時に作られ、明治29年に土葬されてた965体を集めて
合葬の碑が作られてます。
おおよそ千体の集骨から地元の人は千人塚と呼ぶようになったそうです。

石碑が二つ、一つが合葬の碑。

奇麗に整備管理されてる千人塚です。
先人の苦労に感謝の気持ちが出てるのか。

中央の広場に小高い丘のような設計、塚のイメージから何となく気に
成りながら後にしましたね。

三笠市炭鉱産業遺産を、歩いてみて町の観光の目玉にとの気持ちは伝わって
きましたね。しかし、明治時代の古い設備で外に出てる部分の管理をどうするかですね。
老朽化は進むでしょうし、維持しょうとすれば費用が掛かる。
投資効果が出るだけ、人が集まる方法ですね。
ブログランキング、バナー下です。クリックよろしくお願いします。
- 2014/10/24(金) 11:24:19|
- 北海道
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
三笠市街の幌内地区から、さらに道々116号を幾春別川沿いを、桂沢方面に向かいます。
三笠の炭坑歴史では、幌内地区からスタート次に開発されたのが幾春別地区です。
現在は、野外博物館エリアとして整備され炭坑の歴史を歩きながら見学できます。
幾春別地区の博物館です。
幾春別に炭坑が開坑(明治18年)された当時は、この博物館の有る場所に小規模の坑口が多く有り
選炭場等炭坑設備が有った所だそうです。

幾春別駅跡の碑。
幾春別炭坑開坑にあわせ、幌内太駅から延長された駅で桂沢湖方面からの木材
運搬の基点ともなった駅でも有るそうです。

博物館前公園を散歩してると、『幾春別の詩』の碑
作曲 宇崎竜童 作詞 奥さんの阿木女史
歌手は三笠出身の倉橋ルイ子。 この地は彼女の幼い頃の思い出の地
スイッチを押すと曲が流れる仕組み。 カメラ動画で撮って見た。
風が有り、最初は旨く入ってない、後半は良い。
動画。 幾春別の詩 倉橋ルイ子 2分48秒
[
広告]
VPS 博物館前に珪化木。
地層に埋まった木に珪酸がしみこみ、オパール又はめのう化した石。

野外博物館エリアに歩き出します。
三笠市の奥桂沢湖周辺で切り出された木材の運搬で、作られた森林鉄道の線路跡を利用してます。
歩いて50分の1億年時間旅行散歩道ですよ。

幾春別川、 奇麗な清流でした。 渓相も良い。

野外博物館エリアの案内板、子供連れでも適当な距離ですよ。

森林鉄道時代の基礎が残ってます、昭和13年から31年まで運行。
大木を満載にした姿が、浮かびますね。

開鉱初期の石炭大露頭(右側)と、幾春別地区の様子(明治22年頃)
石炭の露頭は、聞いた事ありますが、これほどの大規模には驚きです。

5000万年前の幾春別層。
大露頭とトロッコ線路、明治30年頃の記録

幾春別川沿いを歩いてると、川沿いに錦坑坑口跡が有りました。
この付近の石炭層は垂直、坑口から垂直に約197㍍下がった所に地層にそって
いくつもの坑道が延びてるそうです。

山側に石炭の露頭が見られました。

地中で長い時間をかけて、高い温度と圧力で石炭化した物が、地殻変動で地表
に出たのですね。

整備された見学通路を歩きます。

力強い大地の動き『垂直な地層』
もともとは、地層は水平に重なり歴史を刻むものですが、ここ幾春別層の石炭層は
垂直にまで、地殻変動を受けてます。

狸堀りの説明板が有りました。
この付近の石炭層は、ほぼ垂直のため、狸堀りあとは、まっすぐ奥へ堀進められている。

実際狸堀り跡が有りましたよ、明治期から昭和初期まで行われたそうです。

『5000万年ひとまたぎ』地層近づいてます。

この場所が地層の分かれ目。

地層の説明が有りました、 難しい。

これだけは分かりました、山側に向かい右側の5000万年前の地層幾春別層
からは、石炭層を含んでおり、左側の1億年前の三笠層からは海の化石が多く発見されてる。

ひとまたぎ隧道。

この部分が断層だそうですが、説明出来ない。
分かった事は、1億年前の三笠層は硬い岩盤だった事ですね。

三笠層から出る、イノセラムス。
大きさ1㍍近い物も出てるそうですよ。

神泉隧道に来ました、昔を想像しながら気持ち良い散歩道の感じですね。
森林鉄道の為素堀りのトンネルです。

1億年前の硬い岩盤、奥に進むにしたがい、三笠層の古い岩盤に成りますね。

旧幾春別炭坑『錦立坑』入口の案内。

登りが有りますよ、 整備されてます。

開坑当時は坑道方式で採炭してましたが、大正8年に立坑を建設
櫓高さ10㍍、深さ195㍍。 現存する立坑では北海道最古の櫓だそうです。

地下から出る、立坑部分。

巻き上げ動力設備が有った所でしょう。

帰り道で幾春別川で、渓流釣りを楽しんでる人を見かけましたよ。

大人でも楽しめる場所ですね、気持ち良い。
子供連れの散歩には、最適ですよ。
ブログランキング、バナー下です。クリックよろしくお願いします。
- 2014/10/21(火) 12:09:40|
- 北海道
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
三笠、達布山ジオサイドエリアを紹介します。
札幌から国道12号で、約60㎞。 道々116号を右折してももなくです。
前回紹介した、幌内エリアより近い位置に成りますね。
場所は。
達布山は三笠市指定文化財だそうです。
クロフォード公園。S さんにこの地歴史を聞く事が出来ましたが、幌内の石炭を運搬する
ため、小樽まで鉄道が明治初期に出来ましたが、それを利用して北海道開拓移住者、士族開拓団
屯田兵が小樽から、この三笠まで鉄道で入ったそうです。
その後、道央に向かっては、達布山峠を越え道無き道を歩く事に成ったそうです。
奈良県の十津川村の大水害で、北海道移住を決断した一行も同じコースだったそうです。
移住者の中には、子供連れも有りここから新十津川町に近い滝川に到着するまで、相当の
苦労があったそうです。
頂上展望台です。

石碑が立ってました。

説明板です。

達布山は測量基準点に成ってるようです。

三角点には、1~4 等が有るそうですが、ここは二等で、永久的な基準点として
明治40年に設置されてる。
道央、石狩平野が一望できる事がその理由だったのでしょうね。

展望台、回り階段で登りはキツイ。
達布山と月形町の樺戸と空知集治監を一直線に結ぶ約20㎞の樺戸道路が囚人たちによって
作られてます。
道央、道東の内陸部奥地への開拓の基点となった所だそうですよ。

札幌方面。
明治中頃まで、訪れた要人には山県有朋、永山武四郎、板垣退助が訪れてます。
北海道開拓のプラン作りには重要な場所だった事が想像出来ますね。

小樽方面。

留萌方面、奥に見える山が神居尻山、ピンネシリ。

三笠市内方面、遠くには芦別方面かな。

少し紅葉が見られますね。

達布山から、空知集治監典獄官舎、レンガエントツに向かう。
三笠指定文化財。
囚人は刑期10年を越える重罪者で、最大3000人が収監されてたそうです。
北海道には、囚人道路とか、炭坑労働と過酷な労働に着き北海道開拓を陰で支えたのですね。

説明板が有りました。
明治15年この地に開設

中心がレンガエントツ跡ですが、逆光で分かりづらい。
このレンガエントツは、明治23年に建てられてます。官舎として使われたものだそうです。

レンガエントツ跡。

道路向かいには、ポツンと修行僧の像が。何かを訴えてる声を感じましたね。

クロフォード公園のS さんから、昼食には更科食堂で『そば』をと勧められてた。
大正8年から3代続く食堂で、炭坑と共に生きて来た食堂ですね。

外観もレトロなら、店内もレトロ、時代を感じる奇麗な店。

懐かしいポスターですね。

感じの良い店内ですよ、私が入った時は満席、ほとんどが観光客
皆さん知ってるのですね。
『手打ちそば』 美味しかったです、ぜひお勧め。

達布はアイヌ語でタブ・コブといい、頂上のまるい峰のことを言うそうで
標高143,8㍍の小さな山でした、 でも、回りを観察するには最高の場所。
ブログランキング、バナー下です。クリックよろしくお願いします。

- 2014/10/18(土) 10:33:57|
- 北海道
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
三笠市は札幌から、約60㎞と近い距離に有ります。 過去ログ
石炭を含む五千万年前の地層や新しい時代の地層が分布しており、貴重な歴史から2013年
『日本ジオパーク』に認定されてます。
道産子には、三笠市は昔炭坑の町のイメージですね。
あるマスコミに、『ひとまたぎ五千万年』向こうは一億年前の地層が見られるとの報道
さっそく、見学に訪問と成りました。
三笠市全体が、歴史上炭坑の町として栄え発展した町で有る事が良く分かりました。
余りにも炭坑遺産が多く、一日一杯掛かるくらいですよ。
それだけ、炭坑遺産として残されたものを、活用しようとしているからでしょうね。
今回は、三笠地域でも最初の燃える石、石炭発見の地、幌内地区を紹介します。
明治元年発見、まだ、江戸の香りがする時代想像も出来ない歴史ですね。
幌内太駅(旧三笠駅)です。 現在クロフォード公園として整備、開放されてます。
幌内鉄道として三笠の幌内と小樽の手宮間が結ばれました。

幌内太駅名がかすかに見えるでしょうか。

駅舎内には、ジョセフ・クロフォード氏の銅像が。
アメリカ人で、明治11年開拓使に招かれて鉄道建築兼、土木顧問として幌内鉄道の建設
鉄道技術を伝えた方です。

発車時刻表です。
昭和17年『三笠駅』 昭和62年幌内線の廃止と共に歴史が閉じました。

待合室のダルマストーブ、昔懐かしいですね。
列車内暖房もダルマストーブでしたね、車掌さんが面倒を見てた。
学校の暖房も、ダルマストーブでしたね。

当時を再現、公園化してます。子供連れ、団体のバスも来てましたよ。

観光用に本州の列車かな、北海道では見かけ無いように思いますが。

ホームの渡り廊下。

列車見学の方が多かったですね。

車掌車です、これは見覚え有る。

鉱石運搬車、特に石炭ですね。 30㌧積。
延々と続く、列車風景見ましたね。

北海道石炭産業発祥の地、又、鉄道発祥の地とも言える幌内地区の
三笠鉄道村です、 クロフォード公園から近い距離です。

場所は。
看板です、ここは広く鉄道公園として設備も素晴らしいですよ。
子供連れ、鉄道ファンにはたまらない場所かも知れませんね。
ここが、三笠市、幌内石炭発見の場所なのです。

道内各地で活躍した車両が展示され、蒸気機関車S304号や、ミニ鉄道に
乗車体験も出来ますよ。

大勢の鉄道ファンが来てました、構内も広いです。

SL です。 乗車準備中でしょうか。

動画。 三笠SL列車。 36秒
[
広告]
VPS 三笠鉄道記念館です、明治時代からの貴重な資料等が展示されてます。
鉄道マニヤ必見ですね。

D51 の動輪。

SL 列車運行準備中のようです。

トロッコ列車で楽しんでる。 動力は人力。

列車大集合です。

鉄道村から小川を渡り少し高い所にきました。

本当に整備された鉄道村です。
団体も見られた、個人の客も来てる。 炭坑閉山で苦労されてる所が多いですが
頑張ってほしいですね。

三笠鉄道村の向かいの高台を散歩、旧炭坑に限りませんが北海道田舎風景
石炭時代の多くの人口から、一つ産業が消えたのですから、こう成るのは必然的。
特に最近は、大都会人口移動の時代に成りましたしね。

更地にも出来ない問題があるようですね。

クロフォード公園から、鉄道村間に有った無人のアパート群。

旧産炭地は、あまり歩いた事が有りませんが、時に報道される情報より
少し活気を感じホットしましたね。
情報では、歩くポイントが多くクロフォード公園に着いて直ぐ事務所に寄り聞いて見ました。
公園事務所のS さんに、三笠市ジオパークの効率的な歩き方を説明いただき助かりました。
アドバイス無ければ、一日では無理だったかも知れません。有り難う御座いました。
ブログランキング、バナー下です。クリックよろしくお願いします。

- 2014/10/15(水) 07:10:16|
- 北海道
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
留萌線の最終駅、増毛駅から歩いてまもなくの所に、旧商家丸一本間家は有りました。
平成15年 国の重要文化財に指定された。
本間家の初代本間泰蔵は、佐渡の出身で小樽で商売を学んだそうです。
明治8年27歳で独立して、増毛で荒物雑貨の店を始める。当時の増毛ではニシン景気に沸いていた
頃です。
呉服商、ニシン魚の網元、開運業、酒造業など事業拡大、天塩国一の豪商に成ったのです。
現在の建物は、事業拡大と共に増築され20年以上歳月をかけ、明治35年に完成されてます。
建築材料は、本州から運ばれた物が大部分だそうです。
明治35年に酒造場を移転、これが現在の国稀酒造なのです。
本間家では、時代の流れに合わせ事業を縮小現在は、国稀酒造だけの営業を続けてます。
レトロ感一杯の通りを歩きます、増毛館が有り直ぐの所が本間家でした。

古くは幕末の北方警備に本州から、数々の藩が往来した中、道ばたに津軽藩が
本陣を構えた場所が示されてました。日本海の厳しい環境の中こんな場所までの
警備体制に、驚きです。 それも、明治初期。

丸一本間家です、 重要文化財を示す入口看板。
団体客も多いようでしたよ。

呉服商時代の番台でしょう、本間家の歴史を説明されてました。

番台から外です、広い番台を支える方法が独特でした。

使ってる材料は本州材だそうです。
明治時代から、支えて来たしっかり感に驚きです。

廊下ですよ。

部屋の数々も見学出来ます。
使われてる家具、用品に興味の有る方には懐かしい方も居るでしょうね。

奥の間。

大きな建物、増築の建築で天窓から明かり取りも必要。

附属室方面とある、大きな建物です使ってる材料に注目。

上勝手口、台所で良いでしょうか、井戸も見えますね。

この部屋は、タンスに注目です、 めったに無い材料のタンスだそうですよ。
私には分からない。

客間。

次の数枚の写真、葦の太い部分で造られた建具です。
始めて見ました、北海道にも有ったのですね、その美しさに驚きです。
北海道の気候には、合わないのかな? 美しさにはかなわないでしょうね。
数枚ですが、鑑賞して下さい。





豪壮で、豪快な本間家町屋見学後、南下。
雄冬岬紹介します。

ここは、日本海に迫る断崖絶壁の厳しい自然条件で、昔は陸の孤島と言われた所でした。
日本海に向け、滝が流れ落ちてます。

白銀の滝と言われてそうです。

陸の孤島から、20年余りの歳月を掛けて開通した国道。
住民百年の悲願達成の場所です。

雄冬岬から、南下石狩浜益地区までは、トンネルが多くカーブ、絶壁、奇岩の
多い所です、現在工事中が多いです、安全運転を。
ブログランキング、バナー下です。クリックよろしくお願いします。
- 2014/10/12(日) 07:09:47|
- 北海道
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
増毛駅前で、車中泊。 レトロ感の残る街並、それを旨く活用してる町を 過去ログ
歩いてきました。
増毛町は日本海の海岸美と、暑寒別岳を背にした、レトロな一面を残してる、小さな町ですが
、古い歴史を持つ集落でしたよ。
この町を語る時、旧商家丸一、本間家を抜きに語る事ができないようです。
本間家は、佐渡の出身明治8年27歳で独立して、増毛町で荒物雑貨の店を始めた。旧商家丸一
に付いては後に。
明治35年酒造場を移転しましたが、これが現在の国稀酒造の前身に成ったのです。
明治の頃より、この地方天塩国一の豪商と呼ばれるように成ったのですね。
留萌線最終駅、増毛駅です。 昔よりオシャレに成ってましたよ。

深川市からの留萌線、線路もここで最後。

駅前旅館の富田屋旅館は、昔のまま、 旅館名右読みですね。
駅前の雰囲気を一気に盛り上げてくれます。

駅前から、本通りへ、 昔と近代が旨く融合。

国稀酒造です。 酒好きな方はここを通る時は、必ず寄る老舗。

伝統を引き継いで来た看板でしょうね。

国道沿いの店舗から、奥に向かい工場が並んでます。

店舗横には、酒蔵の命、暑寒別岳の伏流水がサービス。

店内に入りました。

各所に本間家に伝わる品々が展示。

工場に向かう長い通路には、製品展示販売です。
大吟醸試飲も有りましたが、車です。 残念。

新酒が出来た合図で、玄関先にぶら下げる『玉垂』たますだれです。
昨年の旅で黒石市、
中村亀吉酒店で知りました。
NHK 大河ドラマ『いのち』の舞台に成った所です。 ここの玉垂は大きかった、
杉材で出来てます。

明治時代の工場建設風景でしょうか。

昔の酒作り用品でしょう。

新酒の熟成タンク。

酒槽(さかぶね)と呼ぶそうです。
発酵を終了した『もろみ』を『酒粕』と清酒に分離する装置ですね。
待ちに待った工程ですね。
川舟に似た形から舟と呼ばれ、職場の町を、船頭さんと呼んでるそうです。
絞る圧力で、酒の品質が違うそうですよ、当然最初の圧力の弱い所で出る酒が
最高級、大吟醸ですね。

酒作りの米、これは精米前の米、大きいですね。

大吟醸用の精米後の米です。 約半分ぐらい?
高価に成るのが分かりましたね。

米の蒸し器です。

昔懐かしい展示品。

古い伝統が分かります。

国稀の樽酒。

樽酒とは、成りませんがお土産に『にごり酒』です。

見学を終わり、散歩してると新聞の特集で、留萌のランチは『福よし』の看板を見る。
自然と足がそちらに向かう。

海鮮丼、1000円と少し。 ご飯が見えないくらいの海鮮。 美味しかった。
お腹のすいた方は、2600円でまだ、まだたっぷりですよ。
店内は、大入り満員。

増毛を通過のさいには、ぜひ駅前近くだけでも散歩して見て下さい。
気持ち良い町ですね。
ブログランキング、バナー下です。クリックよろしくお願いします。
- 2014/10/09(木) 10:16:32|
- 北海道
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
深川市から、留萌国道に入り沼田町、秩父別町(ちっぷべつ)、恵比島駅見学 過去ログ
増毛町に入りました。 増毛駅前広場で車中泊のお世話に成る。
増毛町は札幌から、近いようで遠い訪問の少ない町です、数十年前二度程通過だけの町でした。
その時はレトロ感の有る町の記憶、ようやく、ゆっくり歩く機会が来ましたね。
日本海北西部に有る町、海岸美の雄冬海岸と山の好きな人には、暑寒別岳が美しい。
増毛から、札幌までの国道は絶壁の海岸、奇岩の多いカーブ、トンネルが続きますよ、
安全運転を。
今回増毛町を訪問の大きな目的は、
当別町弁華別小学校が現在の道内最古の木造校舎とブログで
紹介しましたが、2年前までは、旧増毛町小学校が閉校するまでは巨大で最古の校舎と知る。
現存してる内に、見学させてもらいたいのが大きな目的でした。 紹介します。
なぜ、この町にこのような巨大な木造校舎が必要だったか、そんな事を考えながら
見学させて貰いましたよ。
国道から、東校舎全景です、古い木造校舎は暖かみを感じますね。

増毛町の町から、少し離れた高台に有る勉学には絶好の環境だったでしょう。
校舎に入る最後の階段、ランドセルを背負い、元気に走り登る姿が想像できます。

校門です、増毛町立増毛小学校。

校門に入り直ぐの、東校舎玄関に有った、標語です。 入選作なのでしょう。
平成22年度と有る。

正面校舎です、中央には中央玄関、その前には歴史を見続けた、イチイの大木。
高台の環境の良い場所。

旧増毛小学校は、正面校舎、東校舎、西校舎、学校の裏側に回り体育館と全部つながってる
総2回建ての巨大な学校です、学校の中央には中庭が有りそうな構造ですね。

中央玄関から東校舎方面です。

中央玄関外灯と校内スピーカーが、伝統を残してますね。
この辺りで、多分増毛教育委員会の方と思われる人と、一緒に成りラッキーにも
説明を受けながらの見学に成りました。

HPに校章が有りました。
大正4年ニシン魚華やかなころ制定されたもの、群れ飛ぶカモメと、白砂、良港
を表現したものです。

西校舎方面、本当に大きな学校。 私も道内では見た事が有りませんね。

西校舎玄関です。

東校舎と同じく、西側にも校舎が有りましたよ。

西校舎方面には、給食用の厨房と思われる設備が。

西校舎から、体育館に渡る廊下、昔の学校はどこもこうでしたね。

体育館です。トラス構造と言うそうです。

体育館から、東校舎に戻りました。やはり、中央の中庭を校舎が囲んでるようですね。

東校舎には祝開校133年の看板が。

校舎の回りは、森に囲まれ風と小鳥の声に囲まれた学校だったでしょうね。
しかし、冬期は厳しい日本海の風で鍛えられる。

学校はこの辺りでしょうか。
昔は、学校の近くに教員住宅が有りましたね。

グランドです。
新築時は、1000人の児童が通学可能だったそうです。
現在の児童数、約150名だそうです。 日本の何処の田舎でも置きてる現象ですね。

平成24年閉校してますが、歴史的価値が惜しまれてます。
使用しないと、老朽化のスピードが早い、これほどの歴史的建造物、今後の有効
活用に期待と、一般公開を望みたいですね。
一度廊下を歩き、教室に入って見たい。 地方創世、こんな所に予算取っても良いのでは。
ブログランキング、バナー下です。クリックよろしくお願いします。

- 2014/10/06(月) 10:41:04|
- 北海道
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0
秩父別町(ちっぷべつ)道の駅から、次の停泊地増毛に移動。 過去ログ
この移動で、ぜひ寄って見たいJR 駅が有った、田舎の駅恵比島駅である。
この駅は、『明日萌』駅とも表現されてた、『萌』の字の付く駅に興味、孫に『萌』が居る。
大学2年、沼田町教育委員会のS氏との話で、『明日萌』駅に寄って散歩して見て下さいと
勧められる、その時まで私は、大河ドラマの撮影地とは知りませんでしたね。
恵比島駅(明日萌駅)は、大河ドラマ『すずらん』のロケ地だったのですね。
現役時代は、朝の大河ドラマは見れませんから、記憶に無いのも無理も有りませんよね。
そこは、私の子供時代を思わせる、田舎の風景、山間地の農村風景でした。
国道から駅全景です。

明日萌駅と右側が恵比島駅です、緩急車を改造した簡易駅舎です。
今も使われてる実際の駅舎に成りますよ。ロケの時は古材で覆われたようです。

平成10年12月と翌年の2回のロケでした、放映は平成11年で現在も明日萌駅も朝9時
に開放され使われてましたよ。

時代情景は、昭和初期だそうで建物は、情緒ある昭和時代の木造の作りで、どこか懐かしい
気持ちにさせてくれましたね。
駅前には、ロケで使われた木造の建物が少し残されてます。

駅前には、ロケ用駅長住宅が有りました。外観だけで本当の撮影は本州でしたそうですよ。
年老いた女性と、幼い孫娘の二人がタクシーで北海道のある廃駅に降り立ち、自分の生涯を
孫娘に語りかけるように、幼少期から回想する事で物語が始まる。 Wikipedia

簡易恵比島駅待合室。

ホーム、現実の駅名恵比島駅。

ロケ時の『あしもい』も残されてる。

ここがロケ地として、選ばれたのは線路が一直線で、昭和初期の街並と
駅前広場が有ったからだそうです。 まさにそうでした。
深川方面です。

留萌方面です。

列車を待つ青年と会う。

タイミング良く深川行き到着時間でした。(本数少ないですからね)

降りた客、観光目的で乗り鉄でしょうか、3人に会いましたよ。
このオジサンは、写真を撮ってから国道を深川方面に歩いて行きました。

『明日萌駅』の駅長室です。 駅長、 常盤次郎 (橋爪功)
常盤次郎は萌の養父。 川本富貴 (倍賞美津子)は萌の実母
常盤萌の少女期を演じた女優さんが、柊瑠美で、私の孫『萌』の弟の名前に『柊』が入ってる
偶然の一致ですが、この駅に何と無く懐かしさを感じましたね。

子供の頃こんな時計が多かったですね。
時々、ゼンマイを巻く必要が有りましたね。

懐かしい時刻表と、運賃表です。
こんなに、安い時代有ったのですね。さすがに私にも記憶が有りませんね。

手小荷物扱所。 今は見なく成りましたが昔は何処の駅にも有りましたね。
切符を購入して、それを見せて荷物を送る、チッキと言ってたかな???

待合室の宣伝看板、気持ちが昭和時代にタイムスリップ。

駅前風景です。

駅前には、旧黒瀬旅館(ロケ時は中村旅館)が、ただ一つ残ってました。

農民カフェーを営業中ですよ。内部も見学出来るようです。
沼田町のS さんから、コーヒーでもと進めらてました。

『明日萌の里』の看板が国道に。通りの建物はほとんど取り壊され
駅舎だけ健在と言った所です。

ロケ直後は、このような風景だったのでしょうね。
大切にすれば良かった、そんな感じがしました。最近そんな所に人が集まるの
ですよね。

駅前の山側には神社が、昨年までだったら早速参拝ですが。
今年は、気力が変わってしまいました、遠くから参拝。

近くを散歩してるとバッタが、離れません一緒に散歩。

ドラマ放送直後は観光客で賑わったそうです。
『すずらん』以外でも、その後映画、テレビドラマロケ地に利用されてる。
『愛標津駅』や『鈴々鳴駅』などの駅名で利用されたそうです。
沼田町教育委員会のSさんのお陰で、思い出のページが加わりました。
ブログランキング、バナー下です。クリックよろしくお願いします。
- 2014/10/03(金) 11:52:16|
- 北海道
-
| トラックバック:0
-
| コメント:0