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オジサンの車中泊ぶらり旅&日記

車中泊の旅過去ログ&旅行&日記など綴りたいと思います

雨竜郡沼田町、本願寺駅逓所〜沼田神社〜北竜小学校廃校跡〜鐘のなる町、秩父別町〜 2014.9.30

  オジサンの車中泊ミニぶらり旅、歴史を訪ねて道央から留萌街道に入る。        過去ログ
  北海道に現存する駅逓所9箇所の内、見学は6箇所目になります、沼田町、本願寺駅逓所
  を紹介しますね。

  明治時代の駅逓所制度に付いて簡単に説明してます『駅逓所の役割』 クリック

  本願寺駅逓所は、沼田町集落から少し離れており、分かりづらい。
  調査していた、住所からカーナビ、マップコードでようやく到着、今まで見た中では
  外観にも特徴が有り、ぜひ内部見学がしたいが、無人、見学したい場合はここえ電話と有る。 
  私は、今時珍しい携帯持たない派、田舎です、公衆電話など無い。

  向かいに、北竜簡易郵便局が有る、女性の方一人勤務お世話になりました。
  書かれた電話番号では、留守で出ない、多分個人に依頼してるのでしょう。
  職員の方は、沼田教育委員会に連絡してくれました、すぐ来るとの事皆さんにお世話になりますね。

  まもなく、車で沼田教育委員会次長、Sさんが鍵を開放、一緒に案内までして頂きました。
  私に取っては、ラッキーな見学になりましたね。


 場所はこの辺に成ります。国道275号線沿い。






 本願寺駅逓所です。  S次長さんに歴史を聞く事が出来ました。
 明治27年に建てられて、明治33年官設の駅逓所と成ってます。
 北海道指定有形文化財の指定、2階建で当時この駅逓所の大きな役割は、札幌や旭川と
 留萌を結ぶ、旅人の宿と馬を休め、奥地の開拓に当たっている人々に手紙集配だった
 そうですよ。 雨竜川が近いので、船運も有ったかも知れません。


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 玄関です、玄関の屋根に今まで見た事の無い特徴を感じましたね。


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 2階です、 切妻屋根で、白漆喰塗りの壁、堅繁格子、一階全面には『セガイ造り』
 2階正面に『たてしげ格子の出窓』など旧態をとどめた数少ない遺構で、貴重な物ですね。


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 裏庭から。 昔の日本家屋には何処となく貫禄を感じますね。


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 中庭です。


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 玄関のひさし。 設計者は本州の方だったのでしょう。


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 建物には、昔懐かしい物ばかりが展示。


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 ランプも有りますね、子供の頃ランプのガラス部分の掃除は私の担当でした。
 手が小さいので、中まで手が入る、スス掃除ですね。


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 台所、客室、廊下方面。


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 台所です、広いですね。 利用客多かったのでしょうか。
 奥の床の物は、水ガメかな。


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 客室です。


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 客室、広いですね。 


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 2階階段です、大きな駅逓所です。


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 頑丈な作りの手すり。 現在の新築住宅ではこんな景色はもう有りませんね。


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 2階の床の間、取り扱い人夫婦の写真が残されてましたよ。


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 教育委員会のSさんと、郵便局の職員の親切で、ゆっくり見学出来ました。無料。

 昼食の時間に成り、何時ものオニギリ、タイム。 暑い日で日陰が無い。
 1〜2㎞先を見ると、林が見える。
 そこは、偶然にも北竜小学校の廃校跡でした、北海道の田舎を歩いてると、実に多い。
 廃校、廃坑、廃耕、離農、廃屋、感じますね。道産子として寂しい、これも時代の流れでしょうが
 その中でも、それを旨く逆手に取って盛り上げてる行政も有る。

 北竜小学校廃校跡です。


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 この場所は、この地方の教育発祥の地だそうです。


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 二宮金次郎の銅像は残されてましたよ。


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 グランド、バックネットです。 長年多くの子供達が楽しんだのでしょうね。


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 せっかくですから、沼田神社参拝。
 沼田の町名の由来は、開拓の功労者沼田喜三郎の姓だそうです。
 北海道の開拓では、何処の地区の開拓でも中心となる人物が居ますね。


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 本殿と御神木です。


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 町単位で神楽殿は珍しいですね。


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 深川市から留萌、増毛方面の留萌線。 石狩沼田駅。


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 車中泊場所『鐘のなるまち、ちっぷべつ』到着。
 鐘の塔です、道の駅駐車場の真ん中に有り、朝、夕6時大音響の鐘が成りますよ。
 開拓時代にこの鐘で、朝、夕を知らせたのが伝統として残ってる。


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 場所です。





 秩父別町メインストリートには、鐘のなるまちのアーチが。
 この地方の開拓は、明治28~29年に屯田兵の入植で開拓が始まってます。
 北海道開拓と屯田兵の関係は、どの地区でも出て来ますね。


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 道の駅近くを、散歩してると開基百年記念、百禄園です。 平成3年建立。


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 オンコ(イチイ)と石、水を旨く使った公園でした。
 手入れは完璧。


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 本願寺駅逓所の名称ですが、開拓時代の市街地名は雨竜郡北竜字沼田仁多志別でしたが
 本願寺農場用地に有ったので、『本願寺駅逓所』と呼ばれるようになったそうです。

 秩父別道の駅の朝6時、巨大な鐘の音で起こされましたよ。


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  1. 2014/09/30(火) 12:08:04|
  2. 駅逓所
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深川市、音江法華駅逓所〜明治時代は上川道路〜深川水稲発祥の地〜旧鷲田農場事務所跡。2014.9.27

   深川市は旭川市から札幌市に向かい、神居古潭を過ぎたら直ぐの市です。
   音江法華駅逓所は、深川市街から離れた少し高台に有りました。
   そこは、明治時代樺戸囚人が開削した道路で、当時上川道路と呼ばれてた。
   現在は、別の場所に国道12号がメインコース。

   明治時代の駅逓所制度に付いて簡単にここで説明してます。『駅逓所の役割』クリック

 駅逓所跡を予想して到着した所は、深川市水稲発祥の地、旧鷲田農業事務所跡で有り、自分には
 予想外の所に案内してくれた、カーナビに感謝ですね。
 





 拡大して見ます。
 中央保育園前の川が音江川、その向かい側が深川市水稲発祥の地、
 『旧鷲田農場事務所跡』でした。





 『旧鷲田農場事務所跡』を見学。無人の歴史的建造物。


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 この場所で深川市の水稲が始まったのです。
 明治22年に音江に移住してきた高橋惣吉が、自宅近くで試作明治25年本格的に耕作
 明治30年代には深川各地で行われたそうです。


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 『旧鷲田農場事務所跡』 駅逓所を訪ねてこんな歴史に逢うとは、思いませんでした。
 事務所横から、明治末期に建立、和洋の特徴が有る。
 二階は伝統的な和室のようです。


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 深川市指定有形文化財です。


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 鷲田軍蔵氏が明治25年開墾を始め農場を経営、明治34年には音江郵便局長となる。
 昭和5年には、音江村役場庁舎となり、その後深川市に合併したのですね。
 事務所裏には、子供時代に良く見た北海道の風景、馬車が有りました。 
 冬は、馬ソリに変わります。


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 裏庭は、開拓時代を思わせる林でした。


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 前庭は整備された庭園風景。


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 外観は完全に洋風、農業関係の事務所跡とは想像出来ませんね。
 それも、明治の時代ですからね。


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 深川市の水稲耕作の歴史には、高橋惣吉氏、鷲田軍蔵氏が大きく貢献してる事が分かりました。
 農場事務所近くを散歩してると、隣りに最近更地にしたと思われる土地が有りました。
 伐採された、木株を見ると大木、この地には多くの歴史が有りそう、そんな感じがしました。


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 音江法華駅逓所を、訪ねてきたのでしたね。
 向かいの保育園が、散歩に出る所でした、聞いて見ると『あそこ』ですと見える位置
 音江保育園前の音江川です。ここの駅逓所は船運が大きな目的では無さそうですね。
 石狩川までは、距離が有ります。


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 やっとたどり着いた、音江駅逓所跡です。


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 そこは、小さな集落の中に有りました。昔はこの前が上川道路。
 宿泊と運送の便が主だったようです。
 ある日の夕食紹介しますね。  宿泊料30銭、 夕食、クジラ、豆腐、セリの煮物、
 ミガキニシンの煮付け、シイタケの汁物に漬け物。 十分な夕食風景ですよね。
 説明板だけの史跡です。


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 近くの民家の庭には、ヒメリンゴ?


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 深川市に寄り、深川神社参拝してきました。


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 境内に有った、深川神社三代目宮司、浦武四郎先生顕彰碑です。
 浦家は、奈良県十津川村からの移住した代々社家で、この地の開拓に貢献、教育と
 文武両道で活躍された方のようです。
 十津川物語を読んで見ると、十津川に移住はしたけれどその過酷な開拓生活に
 疲れ、深川、旭川に再移住した方もいたそうです。


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 音江駅逓所の訪問が、カーナビの思いやり案内『?』で深川市水稲耕作の 
 歴史を知る事が出来ましたね。音江保育園の先生にもお世話になりました。


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  1. 2014/09/27(土) 11:02:03|
  2. 駅逓所
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旭川市、東旭川町に旭川神社、学校名は旭川小・中学校名〜その歴史は〜2014.9.24

   道の駅あさひかわで、車中泊。 場所が旭川駅裏との情報で夜の駅前平和通でも
   散歩と思ってましたが、忠別川を挟み結構な距離、高齢者にはきつい、あきらめて
   付近を散歩。

   東旭川は旭山動物園で、全国区に成りましたね。
   旭川近郊の全体地図に成ります。





  私が子供の頃東神楽村に住んでた時は、東旭川村はまだ旭川市に合併前でした。
  子供心に東旭川村なのに、神社は旭川神社、学校は旭川○○小学校、旭川○○中学校の名
  
  その不思議には、開拓の歴史が関係してると思い、今回調べてみる事に。
  現在の旭川市、東旭川町の旭川神社に『旭川兵村紀念館』が有る、そこへ。





 地図にも有りますね、そこは都合良く旭川神社も近くでした。
 学校名も旭川名の、学校名が分かりますね。 本当なら旭川に合併前の東旭川で良い。

 屯田兵開拓の歴史が関係してました、それも不可思議な。

 旭川近郊の開拓は明治23年旭川、神居、永山が開村、25年に神楽村が開村してます。
 この時期に屯田兵が入植、開拓、北方警備とこの地区が発展して行きました。

 その起点が現在の東旭川の地域で『旭川兵村』と呼ばれてたそうです。
 その当時の、現在の旭川市街地は『忠別市街地』としてまだ、まだ発展はしてない。

 明治30年に成り、忠別市街地に七師団の移駐で戸口増加、本来の旭川であった『旭川兵村』
 を永山に編入し、後から人口増加の有った忠別市街地を『旭川』として独立させたのですね。
 
 この成り行きは、地元の『旭川兵村』は知らぬまに道庁の告示だけだったそうです。
 (そうなる、動きが他から有ったそうですが)
 当然、『旭川兵村』から猛烈な反対運動が出る。

 結果、永山村に無断で編入された『旭川兵村』は再び分離し、旭川に東を付けて東旭川
 とし、神社、学校はすべて旭川の名称で呼ばれる歴史になったのですね。

 本当は今の東旭川区域が、旭川として発展した可能性もあったのですね。
 道産子以外の方には、理解しづらいブログに成ったかも知れません、旭山動物園
 の町、東旭川にはこのような歴史も有ったのです。

 ?十年前から、疑問に思って事が解決しました、自己満足かも知れません。
 お許しを。


 旭川神社も参拝して来ました。 この神社にはすごい歴史が有った。
 国道から入る大鳥居、全道一高い鳥居だそうです。


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 東旭川開村記念碑。


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 旭川屯田兵練兵場跡です。 史跡が多く非常に広い敷地でしたよ。


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 旭川神社鳥居から。
 この旭川神社は、伊勢神宮の御分霊である事です。
 伊勢神宮の御分霊は一切許されない時代、屯田中隊長菊池氏が、北辺の防衛と北海道開拓の重責を
 担って酷寒の地で苦労を重ねてる、屯田兵や家族の実情を説明し、特別に許可された歴史ある
 神社なのです。
 旭川の冬は、内陸性気候で本当に厳しい環境、屯田兵幹部もそこを考えたのでしょうね。


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 鳥居の右が社務所、神楽殿もありました。


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 参道脇の小砂利が、京都の神社、仏閣を思わせる手入れ、スジが奇麗に入ってました。


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 女性の参拝者が一人。


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 本殿です。貫禄ですね。


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 境内に有った『おもかる石』
 神社参拝の後、先ず石を持って重さを覚えます、次に石に両手を当てお願い事をする。
 次にもう一度石を持ち軽く感じたら叶う、重く感じたら最後に一礼。


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 境内社、若宮八幡神社。 愛宕神社。
 鳥居大正4年建立とありました。


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 石碑。 石柱に東旭川村の文字。


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 ヘビ石??  作ったようには見えませんでした。
 自然石?


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 旭川兵村紀念館石碑。


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 紀念館全体です、大きいですよ。
 ここで、私の長年の疑問が解けましたね。


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 正面玄関、建物も立派ですが、歴史の引き継ぎを大切にする
 気持ちが伝わりましたね。


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 境内社、 顕勲神社。


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 練兵場跡でも有りますね、零式艦上戦闘機のプロペラが展示。


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 加藤の松
 加藤建夫『隼』戦闘機の名パイロットの生家の松で、この地に移植したそうです。


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 神迎えるハルニレ。
 明治25年屯田兵の練兵場を開設のため、密林を伐採中このハルニレの根元に熊の
 頭蓋骨が4個を発見、アイヌの霊樹と考え残された物です。 樹齢300~400年


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 根元を見ると風雪に耐え、開拓屯田兵の力を感じます。


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 この神社にも土俵が有りました、今もお祭りには子供相撲大会有るのでしょうかね。


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 開拓の時代から、この地が旭川だったと言う写真がありました。
 現在の東旭川町に有った小学校です、校門に旭川の名称が見えますね。


旭川小学校


  歌。 『わが美しき故郷よ』  畠山美由紀。





 昔は東神楽村からは、距離はあまり有りませんでしたが、忠別川には
 今のように橋が有りませんでした。近くて遠い村でした、東川村もそうですね。
 
 疑問が解けた、故郷散歩でした。


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  1. 2014/09/24(水) 11:47:32|
  2. 北海道
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我が故郷、上川郡東神楽町〜旭川市のベットタウン化〜昔の面影残る所も。2014.9.21

   札幌から駅逓所、古い歴史を訪ねながら旭川に入りました。
   旭川市の隣り町の、小さな町東神楽町、私が社会人に成るまで過ごした故郷です。

   父、母のお墓参りをし、実家(弟)の所でゆっくりする。
   東神楽町は、東西22㎞、南北6㎞ぐらいの、細長い町です、私の実家は旭川市に近い
   東聖地区に有ります。 西には旭川市と合併した西神楽、北には忠別川を挟み東川町
   
   西方面に高台が有り、二面に分かれている感じですね。
   私は高台で生活、実に大雪連峰、十勝連峰の願望は最高でしたね。
   何処を見ても、水田と点々に有る農家の風景でした。

   近年故郷に帰省するたび、故郷の変貌に、表現の難しい気持ちに成ってました。
   特に、私の東聖地区は、旭川市のベットタウン化、住宅街と大型ショッピング街
   に変貌、 救われるのは、まだ私の実家の高台は水田風景が残されてる。
   

 実家から東方向に、旭川空港(管理は旭川市)が有ります、近くにお墓が有り
 久し振りに、水田が残る高台地区をドライブ。
 昔、東聖小学校の分教場として高台地区の本校から距離の有る所に、聖台分教場が出来た
 記憶が有る、本校まで7㎞ぐらい有る、小学生にはきついですね。
 寄って見ました。


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 聞いて見ると、中学生のスクールバスの待機所のようです。
 中学は全町、一校に集約、小学校は昔のまま、全町4校のようです。

 大雪連峰、右が十勝連峰が続くのですが、雲に隠れてますね。


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 この、中心辺りが旭岳を中心とした大雪連峰に成るのですが、残念。


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 普段の行い良ければ、こんな風景見られるのですが。


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 十勝連峰も雲の中、条件良ければ噴煙が見える事も有りました。


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 聖台分教場前の国道です。
 昔から、町民が花を町内に植える運動をしてる『花の町』としても知られてます。
 道路脇に花が植えられてますね。


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 私の通学路だった、金比羅山神社の高台に戻りました。
 ここから見える、故郷は住宅街ばかりでした、低い平面地帯には一軒の農家も有りません。
 人口は平成2年5700人が現在1万人を越えたそうです、道内屈指の人口増加率だそうです。

 この写真の左側の林に金比羅山が有り、子供頃の遊び場でした。
 残念ながら、火災で無く成ってる。 言葉は分かりませんが本山に返したそうです。
 開拓の時代から、年代が変わると神、仏に対する考えも変わるのでしょうかね。
 石碑だけは有りました、


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 中心の住宅街辺りが母校の小学校に成ります。
 高台に成る、林には山菜、ブドウ、コクワ(サルナシ)が楽しみでした。


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 母校です、校門だけは昔のまま、
 クラスは一つ、中学までクラス替えは有りません、兄弟感覚に成りますね。


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 国道側のグランド脇の林は昔のまま、


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 二宮金次郎像は別の像に変わってました。


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 校庭の木は、大木に年月を感じますね。


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 現在の母校校舎です。昔は当然木造校舎、でも作りは頑丈でしたよ。
 冬に成ると、登校するとストーブには火が入ってましたよ、小使さんの住宅は学校と
 併設されてました。


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 グランドで、数人の学生が運動をしてました。
 許可を取って無いので、近くからの写真に成りました。
 奥に見える、林の所に中学校が有り、グランドは共有でしたよ。

 このグランドを見て、懐かしい思い出が有ります、今では考えられない。
 私は、終戦直後ぐらいの入学ですが、このグランドは粘度質で水はけの悪いグランドで
 一度雨が降ると、数日は使えない。

 そこで、グランドの中心から小川まで父兄が、巾50㌢、深さ70㌢長さ100㍍ほどの溝を堀
 全校生徒で、近くの忠別川からニギリ拳ぐらいの石を数日集めて、溝に埋めた記憶が
 有ります、石の上に父兄が柳の木を被せて、土を埋め戻しして完成。

 働きアリの、行列に見えたでしょうね。今では考えられ無い、誰の案だったのでしょうか。
 川から、石を取る事じたい違反行為。 時効だから許してもらいましょう。

 その後、見違える程水はけが良くなった事を記憶してます。


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 東神楽町の位置関係と母校の辺りです。





 旭川市、駅裏の近くに道の駅が出来てる。
 一泊させて貰いました。  道の駅で夕食、美味しかったですよ。


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 母校の回りは、住宅街とショッピングセンターに変貌してましたが。
 校庭の林を、歩いた時には?十年前の事が思い出されるものですね。
 明治29年に、東聖地区に40戸の移住者が有り、学校設立が必要に成り、開校された。
 児童数は12名だったそうです。  現在の生徒数433名。

 開拓の時代から、北海道もどんどん、新しい歴史が作られて行くのですね。


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  1. 2014/09/21(日) 11:37:53|
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旭川市、旧忠別太駅逓所〜現存する貴重な歴史遺産〜三大河川の合流地点。2014.9.18

  明治時代の北海道駅逓所制度について、説明用意『駅逓所の役割』 クリック
  
  旧忠別太駅逓所は、札幌から進み旭川市に入る手前、旭川大橋の近くでした。
  そこは、上川盆地にとって三大河川の石狩川、忠別川、美瑛川の合流地点でしたよ。
  
  北海道開発そして、駅逓所の場所と河川との重要な関係がここ忠別太駅逓所でも再確認しました。
  上川道路(当時は囚人道路とも表現)の工事が進むにしたがい、開拓の進捗には道路沿いの
  忠別太(現旭川市)音江法華(現深川市)空知太(現滝川市)奈井江(現奈井江町)
  岩見沢(現岩見沢市)の5ヵ所に駅逓所の設置形画進行が開拓の進行を早めたのですね。

 旧忠別太駅逓所は、上川農作試験所の官舎だったそうで、明治19年建立されてます。
 忠別川側に看板が有りました。


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場所です。





 敷地内に説明板が。
 明治20年、上川道路(札幌〜旭川間)の作業に当たっていた樺戸監獄署の忠別出張事務所
 と成ったのです。


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 明治22年官設駅逓所として、正式に忠別太駅逓所として開駅されました。
 通路から駅逓所全体です。


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 裏側です。


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 裏側には、勝手口が有りました。


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 駅逓所通路反対側。


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 入口階段です。


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 玄関を入った所です、思いのほか小さい玄関でした。


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 平面図が有りました。


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 事務所です。
 農作試験所が前身、ここには測候所、忠別電話局も有り最先端拠点として上川開発には
 重要な役割を持ったいたようです。


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 玄関を入って奥に居間が有ります、狭い部屋でした。


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 勝手口ですが、ピンボケ(何時もの事技術不足)


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 風呂です、懐かしい私も子供の頃、五右衛門風呂でした。


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 真ん中の敷板に上手に乗って沈めていかないと、沈没。
 私も明治時代の人間か?? 田舎育ちと言う事にしときましょう。


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 台所に釜戸が二つ。


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 井戸です、建物内の井戸明治時代としては珍しいのでは。


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 客室です。広い部屋でした。


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 こちらも、客室です。泊まりが多い時は相部屋だったのでしょうね。


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 風呂から客室に行く廊下。


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 壁です。 何処の部分もそうですが歴史を刻んだ建物です。


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 庭には指定保存樹。
 鉄道の開通で明治36年廃駅となってます。


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 歴史を感じる太いサルナシ(コクワ)が頂上まで巻きついてましたよ。


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 コクワの実がついてました、最近何処の山に入っても山ぶどう、コクワを
 見る事が少なくなりましたよ。
 コクワ食べ過ぎると、オシリがかゆく成りましたね(笑)


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 明治時代の駅逓所の写真が有りました。
 昭和41年旭川市最古の建造物となり、旭川市指定文化財。


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 明治23年の旭川、神居、永山の開村、明治24年より屯田兵の入植などによる
 人や物資の流通に大きな役割を果たしたそうです。
 囚徒は別に獄舎を近くの地に建設されてたそうです。(工事の為の囚徒)


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 現在の生活は、明治時代の屯田兵、一般人の本州からの移住、囚徒の開拓の苦労の
 歴史が有る事を再確認しましたね。

 忠別太駅逓所は北海道に現存する5ヵ所の駅逓所の一つです。


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  1. 2014/09/18(木) 11:37:40|
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滝川市、空知太駅逓所跡〜石狩川に合流する空知川堤防そば〜探索に苦労、2014.9.15

   北海道駅逓所制度、始めて聞く方ここに、説明ブログ用意『駅逓所の役割』クリック。

   空知太駅逓所跡は石碑なのは、知ってましたが行き着くのに苦労しましたね。
   今までの駅逓所、ほとんどが川に関係してる、今回も空知川を参考に探索。

   そこは、空知大橋を渡り国道12号線に近い、中小の会社、住宅街の一角でした。

 明治22年頃江別から現旭川まで、5箇所の駅逓所が作られましたが、その一つでした。
 第三美瑛舎とも言われてたそうです。
 国道12号線沿いの会社裏にひっそりと、立ってる石碑、明治時代は大切な場所でしたが。


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 奥の緑が空知川の堤防です、 船運の利用の多い駅逓所が想像できます。
 この直ぐ下流が石狩川です。


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 石碑は昭和48年建立と有ります、開駅が明治22年。 廃止が明治39年
 初代取扱人、 高畠利宣。
 昭和48年古い駅逓所を廃棄して石碑にしたのでしょうか?


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 角度を変えて、わずかに空知太の文字が。
 北海道一の大河石狩川と空知川が合流する空知平野の中央部で、開拓には重要な場所
 だった事が想像できますね。
 石狩川を渡れば、増毛街道(現国道275号線)との連絡も容易でした。


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 場所です。






 滝川神社参拝。


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 十津川村移住者の影響でしょうか、ここの手水舎も竜の彫物でした。


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 狛犬も立派、大きな神社です。
 明治23年7月屯田兵移住で、神霊拝所を建設、滝川神社の前身となったようです。


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 本殿。  明治28年本殿を建立滝川神社となる。
 その後、何度かの造営、本殿改築の歴史が有るそうです。


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 神社には珍しい、魚菜供養之碑。  包丁塚石碑です。


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 滝川屯田兵移住記念碑。
 明治22~23年に移住、士族屯田兵の最後だそうです。
 山形県と奈良県の十津川移民の人達で、屯田兵が入植した頃は中空知の中心地として
 北海道開拓の拠点地だった時代が有りました。

 明治31年鉄道が忠別太(現旭川)まで延伸された頃から開発の中心は旭川に移ったそうです。
 明治31年大洪水で大きな被害が出たことも大きく影響した歴史が有ります。


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 滝川道の駅に寄りましたよ。


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 あまり大きな道の駅では有りませんが、地元野菜が有ります。
 12号線沿いですから、駐車場は広い、遠距離トラックの休憩場所にも成ってますね。
 車中泊の方は、駐車場所を考えましょう。


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 ここに寄るとソフトと決まってます。昔は道の駅田園の里うりゅうのソフト
 でしたが、味は滝川ですね。  最近は三笠道の駅が上位かな、(個人的の評価)


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 北海道開拓は、大河と出来るだけ平らな平野が条件。
 そんな所に駅逓所ができる。


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  1. 2014/09/15(月) 07:30:31|
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新十津川町、国道451号線日本海方面〜吉野地区に西徳富駅逓所〜  2014.9.12

   明治時代の北海道開拓に重要な役目を果たした駅逓所を時々紹介してますね。
   始めて聞く方は、駅逓所の役目に疑問が有ると思います。

 『駅逓所の役割』

  明治、大正の北海道開拓の時代、北海道に来る人、旅の人に宿泊所として、又、人や
  馬を貸し出し次の駅逓所まで、または目的地までの便宜を図ってた。
  勿論有料です、 蝦夷と言われてた江戸の時代には通行屋の制度も有った。
  札幌市の定山渓方面の簾舞に、一箇所だけ保存見る事が出来ます。
  全道に現在、駅逓所として保存、管理されてる駅逓所は5箇所有りますよ。
  後は、石碑、説明板ですね。

  運営は反官、半民の請負制で誰でも出来る制度では無かったようです。
  最大多い時で全道に、517駅(千島41含む)有り開拓に大きな役割を果たした制度です。
  昭和21年、各地の道路、鉄道の拡充で制度は廃止に成る。


 新十津川町、苦難の開拓歴史歩きました。(前回ブログ)
 新十津川町から、国道451号線を日本海に向かい、約20㎞の地点に吉野地区が有ります。
 そこに、西徳富駅逓所跡が有り行ってきました。
 この地区には他に南幌加駅逓所、幌加徳富駅逓所が歴史の中では有るのですが、行きつけ
 ませんでした。

 西徳富駅逓所は、吉野小学校近くの情報で分かり易い。
 『新十津川で心呼吸』の看板で直ぐ発見。 町章は奈良県十津川村と同じだそうです。


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 吉野小学校校門そばに、西徳富駅逓所の碑。
 近くには小さな集落、山に囲まれた田園地帯ここの駅逓所の役目は何だったのでしょう。
 近くに、石狩川に合流する徳富川、日本海浜益地区との交流の為?


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 この地区の開拓に功績の有った、西徳富土功組合創立記念碑。


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 旧吉野小学校です。
 明治38年開校103年の歴史に幕を下し閉校、現在は『かぜのび』として、アートの森彫刻
 体験交流促進施設として、町民の憩いの場として活用してるそうです。

 かぜの中の、のびやかな時間。 農道を抜けて、あの高台の『かぜのび』へ行こう
 が主旨だそうです。

 私も子供時代、稲作農家で育ちましたが、農繁期は早朝から暗くなるまで、体を酷使
 してるのが農民でした。
 この吉野小学校跡の活用を見て、嬉しくなりました。


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 グランドまで、入らせて貰いました。
 中央にモニュメントが有る。

 最初の石碑には。『新十津川小学校よ永遠に』
 清き流れの 十津川に  よしの桜の 生うけて
 教えの庭に おいたちし  やまとなでしこ 美しや
 朝にのぞむ ピンネシリ 高き姿をあおぐべし
 夕辺に 澄める徳富川  清き心をうつすなり


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 校庭の石碑の先に積まれた石は、歴史の数だけ積まれてるそうです。
 私はこの前に立った時、この先々頑張って乗り越えて行こう、の意味に見てしまいましたね。


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 校門前には、小さな池が。


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 ソバ畑が有りました、本場は幌加内ですもね。


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 実りの時期のようです。(左) 吉野小学校校庭の花 (右)


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 西徳富駅逓所場所です。





 吉野地区より、左側浜益方面に向かう幌加地区に後2箇所あります。
 この地区に3箇所の駅逓所の設置の意味は分かりません。
 日本海側との交流、徳富川を利用した農産物、木材の船運だったのでしょうか?


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  1. 2014/09/12(金) 11:07:59|
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樺戸群新十津川町、明治22年奈良県から苦難の移住歴史、新十津川町を歩く。2014.9.9

   新十津川町は国道275線沿いの町で、石狩川を挟み国道12号線側は滝川市です。
   道東に長年住んでましたから、この町は何度も通ってましたが歩いた事は有りません
   でした。

   平成14年奈良県、十津川村国道168号線十津川街道を通り、道の駅十津川に寄った時
   地元の若い青年と話す機会が有りました、その時始めて北海道十津川町との歴史を知りました。
   
   それは、苦難で悲壮な移住の歴史でした。
   その時、青年は移住した北海道で町まで、発展した事を喜び今でも十津川村からはソバ、木工品
   を送り、十津川町からはメロン、米等で交流が続いてるそうですよ。

   新十津川物語、やNHK 大河ドラマでさらに、知る機会が有りました。
   一度ゆっくり歩いてみたいと思ってました。

 奈良県の十津川村は、ほとんどが森林の県、深い渓谷の川沿いに集落が有る、そんな記憶です。
 少し、オーバーに表現すれば谷沿いの反対側に、大声で話せば会話出来るのでないか、そんな
 急傾斜の谷間でしたね。

 当時の写真で、プリント写真をデジタル化して見た物紹介します。
 谷瀬の吊橋です、高さの有る吊橋で十津川村を想像出来ると思います。


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 明治22年8月奈良県十津川郷で大水害が発生が、苦難の移住の始まりでした。
 『鳥も通わぬ十津川の里』と太平記に書かれた山村、十津川村だったのですね。
 山や谷壁がなだれ落ち、渓谷をせきとめ、ダム湖が決壊大災害になったのですね。


 十津川町です。






 十津川町に入ると、すぐの所に菊水公園が有りました。
 この公園は、十津川村忠臣、楠木正成の家紋の旗指物を展示し菊水公園を造成して
 いる事からも、十津川村の記憶の念が表れてますね。


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 北海道長官永山武四郎の勧めを受け、北海道に新十津川の創立をうながし、600戸、2489人
 移住人は、3回に分かれて故郷を出発、神戸港から小樽港に入る。
 十津川町公園には、どこも移住の苦労の碑が多く有ります。


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 大きなハルニレの木です。


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 開拓記念保護樹木、説明板です。


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 開拓の碑  『故郷の残夢』
 死者168人、家屋流失426戸、耕地の流失226ha。生活の基盤を失った者3000人。
 嵐は数日続いたそうです。  最近も想像を越える災害が有りますが、言葉が有りません。


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 広い公園です、作業員が清掃中でした。


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 『望郷の碑』

 ふるさとは 空をただよう
 白い雲 目に遠く 心に近く
 消えては浮かぶ
 白い雲

 開拓の苦難の日々、時々故郷に思いをよせる心が感じられますね。


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 『洪水の碑』
 小樽から市来知(現三笠市)までは汽車、明治22年にはもう北海道の一部ですが
 鉄道の時代だったのですね、 私は想像もしてませんでした。
 その後徒歩で空知太(現滝川市)へ。


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 菊水公園に隣接して出雲大社が。


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 中央公園です。


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 新十津川町開拓記念館、休館でした。
 空知太(現滝川市)の屯田兵屋は建設中でまだ、150戸しか無く一戸に移民4戸が
 入ったそうです。
 十津川村を秋に出発ですから、現滝川市で冬を過ごしたのですね。


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 レンガ作りの立派な作りでした。
 滝川の屯田兵屋で越冬し、徳富川流域のトック原野(現新十津川町)に入地開拓の歴史が始まる。
 滝川に到着した11月から23年7月まで96名が死亡したように悲惨な移住のスタート
 だったそうです。


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 新十津川農業記念館、ここも休館でした。
 北海道には、多くの被災地からの移住者によって開拓されたきた歴史が有り、本州の
 開拓の歴史とは大きく違うと思いますね。

 上川郡愛別町村には明治28年岐阜団体、山梨県の水害被害者は倶知安村と現豊頃町に
 『災害と戦災で生活の場を失った人達の開拓の土地となった時代』
 ですね。  今でも本州の地名そのまま、使った地名が多くありますよ。


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 新十津川小学校跡地記念碑のようです。


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 新十津川神社参拝してきましたよ。


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 広く、大きな樹木歴史を感じる神社でした。


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 本州の神社でよく見かける手水舎、奈良県からの移住が感じられますね。


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 本殿。


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 百年記念碑。


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 開拓功労者、西村氏の碑。 風化で良く読めませんでした。


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 明治23年6月そこは、大木が生い茂る未開の大地、厳しい自然。
 測量風景写真が有りました。


新十津川


 現在の新十津川町航空写真です。
 左が徳富川、右が石狩川で、左下が新十津川市街地に成ります。
 何代かで、築いた貴重な大地ですね。


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 12年前、十津川村で出会った青年が私の故郷は村ですが、移住された方々は
 町にまで、発展したのが嬉しいの言葉を思い浮かべながら歩いて来ましたね。


 歌。  石狩川流れ節。  民謡。 尾形博子。





 参考資料、 新十津川HP,  新十津川物語、 Wikipedia

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  1. 2014/09/09(火) 11:36:54|
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道央、増毛方面に向けミニ車中泊ぶらり旅、樺戸駅逓所、浦臼神社、鶴沼公園、2014.9.6

   札幌近郊、特に石狩川の旭川に向かい右側、千歳川近郊の明治時代の歴史
   を訪ね、紹介して来ました。

   それは、石狩川左側(275号線方面)日本海方面に向けての古い歴史遺産は
   無いと自分では思ってました。

   調べて見ると、北海道の開拓の歴史は明治と共に全道的な活動だったのですね。
   『オジサンの車中泊ぶらり旅』ミニ出発する事にしました。
   ブログは都合により、過去ログに成ります。了解下さい。

   故郷旭川方面、沼田、増毛方面の歴史散歩して来ますね。

   今日は、樺戸郡樺戸駅逓所跡を紹介しますね。
   浦臼町、275号線沿い、札幌から見ると石狩川の左側初の駅逓所に成ります。
   この辺りの開拓は、現在の12号線側が中心だったようで、鉄道の開通もこちら側
   が中心でした。。12号線は昔は囚人道路と言われてたそうです、厳しい工事は主に
   囚人が関係したからですね。北海道の開拓の歴史にはそんな所が多いです、トンネル
   鉄道、ダム工事ですね。

 樺戸駅逓所跡の情報は、つるぬま道の駅を新十津川に向かい2~3㎞先でした、小さな商店が
 有る所、何度探しても分からない。

 最後の手段、つるぬま道の駅へ、知りませんの一言、地元の宣伝の意識がまったく感じられない
 ただ、商品を売る店屋の感じをしました(申しわけありません)

 浦臼歴史資料館で、情報を得る事が出来るかも知れません、向かいました。
 行いが悪いのでしょうか、休館日。  奥に見えるのが資料館です。


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 広い敷地に大きな蒸気機関車の動輪が。
 この動輪は、開通当初の動輪を国鉄から寄贈されたものです。


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 説明板が有りました、浦臼への入植は、明治24年だそうですが、この切っ掛けが
 小樽、砂川間に鉄道の開通によるところが大きいそうです。
 開拓が進むにつれ、農産物の輸送が石狩川の船運や、渡し船で鉄道利用と大変不便に成って行く。

 石狩川の反対側の集落、現在の当別、月形、浦臼、新十津川、沼田等の住民が鉄路施設に努力を
 そそいだそうです。

 念願かない、大正元年から工事に入り昭和10年現在の桑園から石狩沼田間の総延長111,4㎞
 が全通したそうです。

 札幌〜旭川線に遅れる事45年も有ったのです、感動でしたでしょうね。
 私も現役時代、学園都市線として毎日利用させて貰いましたが、こんな長い苦労の歴史等
 知らずに乗ってましたよ。


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 資料館休館でしたが、ここの鉄路開通の歴史を知る事ができましたね。
 樺戸川駅逓所の、情報を得るには後役場しか有りません。
 (何人かの町民の方に聞いて見ましたが分かりません)


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 3人の職員の方が、詳しい地図を見て調べてくれました。
 役場には、我々の知らないすごく、詳しい地図を持ってる事を知りました。
 そんな時、奥のデスクから若い職員が知ってますよの声。

 商店の横ですよねの言葉に、その方はもう閉店してますの言葉、見つけられない
 原因を知る。 皆さん親切な対応有り難う御座いました。お陰で諦めずにすみました。

 ようやく、発見です。到着です。
 雑草の中、これでは分かりづらい。







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 樺戸駅逓所跡の石碑、 近くを手で草刈り(笑)
 今までの駅逓所は、そこに有る意義の想像は出来たのですが樺戸川駅逓所がここに開設
 した理由が分かりづらい、石狩川から離れて居り、洪水をさける位置からか?

 開駅明治24年  廃止大正元年。


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 『稜位』の石碑が並んでる。
 『浦臼先住者 青木六蔵氏贈之』と刻まれてる。
 青木氏は初代の取扱人で、青木氏に贈られたものか、青木六蔵氏が先住民族に敬意を
 示したものか不明のようです。この地にアイヌの方々が住んでた歴史は有るようですよ。


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 駅逓所探しで混乱した、閉店した商店は直ぐ隣りでした。
 開店中は、駅逓所跡地の手入れをしてたのでしょうね。
 今度ここを、通る時は草刈りカマを持っていきます。


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 つるぬま道の駅に近い浦臼神社を参拝させて貰いました。


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 大鳥居、浦臼神社は明治43年落成、当時は無社格。
 大正6年本殿新築、村社となってます。


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 参道には昔住民が苦労して、開設した線路が。


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 線路を渡ると、急な階段の参道が待ってました、高齢者にはきつい。


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 到着です。


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 本殿参拝。


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 帰りもつらい、私は昔右足首を怪我してから登りより、下りが苦手。


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 参道を下り、国道275号線に出ると前につるぬま公園が有ります。


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 キャンプも出来るようですよ。


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 ボート遊びも。


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 浦臼町職員のお世話に成り、諦めずにこの地にも駅逓所開設の歴史が、有った
 事が確認出来ました。有り難うございました。

 この後、新十津川町に向かい奈良県十津川村からの移住歴史を少しでも感じて
 見たいと思います。


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  1. 2014/09/06(土) 11:54:44|
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石狩当別町の開拓と仙台藩伊達邦直氏〜当別神社〜白樺緑地公園。 2014.9.3

   当別町、弁華別小学校見学の後散歩   過去ログに成ります。
   当別町の開拓の歴史と、仙台藩伊達邦直の関係を知り驚きの一日でした。
   
   当別町の歴史散歩は、町の東側に集中してます、白樺緑地、大成寺、伊達邸別館
   (ここで伊達藩と当別開拓に付いて少し詳しく)。当別神社等。






 当別神社到着、 初秋は神社の祭りが多いですね。
 ここにも、御祭り神燈が。 最初の大鳥居です。


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 当然この神社にも、伊達邦直氏との関係が深い。
 明治5年、この近くに小社を建て阿蘇神社とした。


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 昼間ですが、参拝の親子。
 この辺りを阿蘇公園と言ってるそうです。


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 神社創立の願いが通り、大正5年村社、大正9年開基50年に社殿を造営、昭和42年
 当別神社と改称した歴史を持つ神社でした。

 風格を感じましたね。


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 狛犬も高い所から見守ってる、 大きな玉石に乗ってました。


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 当別開拓紀功碑。
 伊達一族にたいし、苦労と功績をたたえてます。


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 伊達邦直之命当別開拓之宗祖。
 100年記念碑。


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 本殿です。


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 開拓者のよりどころだったでしょうね。


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 ここにも、伊達氏開拓記念碑。


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 忠魂碑。


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 吾妻謙君の碑。(あずまけん)
 家老であった、吾妻謙は伊達邦直から開拓主事に任命され北海道開拓
 志願書を、新政府に提出、その後も当別開拓に功績が大きい方だったそうです。


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 開拓記念樹のオンコ(イチイ)です。
 仙台藩岩出山藩の、調査隊が当別移動に先立ちこの地に到達した時
 このイチイ記念樹の近くに露営した、ゆかりの樹木です。


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 説明板が有りました。


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 当別町と伊達藩の関係を知る切っ掛けに成った、当別町役場。
 開拓の像。


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 役場前を通過する、JR 学園都市線。 
 私も、時に利用してます。


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 散歩してると、白樺緑地が有りましたよ。
 白樺公園かと思ったら、白樺町名を使った公園でした。
 当別神社、伊達邸別館、大成寺に並ぶような位置、散歩して見て
 町中公園なのに、大木が多い開拓時代からの公園を想像しましたね。


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 当別町散歩の最後の地、明治の歴史を多く見たせいか、
 開拓時代そのままに見えてしまいましたね。


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 町内に大木茂公園の表現が合う。


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 東屋です。


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 高樹齢の木も見られます。


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 公園と隣接した所に、古いけど風格の有る住宅が有りました。
 撮らせて貰いました。
 屋根飾りと、レンガの煙突に特徴が有りますね。
 私の田舎でも、昔、見た記憶が有りますが、歴史が長く、豊な家庭に多かった
 ように思い出しますね。


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 当別町は、歴史の生い立ちを大切にし、それを守ってますね。


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  1. 2014/09/03(水) 10:39:49|
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N.PIKA

Author:N.PIKA
大雪山を一望できる上川盆地で育ち、旅、登山、釣りを趣味として年輪を重ねたオジサンです。
全国車中泊の旅を3度トライしました、

イラストは大雪連峰です。

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