オジサンの車中泊ぶらり旅も最後の一夜、道の駅YOU.遊。もり。
この大地に戻り、肌に触れる風は長年慣れたやさしい風でしたよ。
朝、函館方面に戻り大沼公園を歩くことに、そして、ここ通過恒例の大沼ダンゴを求めなくては。
大沼公園は、駒ヶ岳の大爆発により谷を埋めてできた、せき止湖で大沼湖、小沼湖、じゅんさい湖
には、大小1260の島々が点在し湖水に映える駒ヶ岳と共にすばらしい景観ですよ。
この日は曇りで湖面の駒ヶ岳は見ることは出来ませんでした。

これは、川えびの定置網で佃煮は大沼名物ですよ。

時間に余裕をもって観光を進めます、島々を橋で結び素晴らしい遊歩道が整備されてます。
私も長旅の疲れを忘れて歩いてましたよ。

歩いていると自分がどの位置なのか分からなく成る程小島が有ります。

自然が作った景観はすばらしいですね。

風が無く、橋が湖面に。

湖面には花の時期を迎えてましたよ。

拡大、黄色が丸い花がつくコウホネ。ピンクがスイレン

公園ではボート、遊覧船でも楽しめますよ。

新緑がまぶしいくらいでした。

逆さ橋ですね。

大沼公園を歩き、札幌へ。この旅一番の長距離運転に成ります。
北海道の富士山、羊蹄山ですよ。山の頂上には大きな雲が。この後猛烈な雨が30分くらい。

大沼公園で名物ダンゴ、ゲットしましたが写真撮らずに胃の中へ。
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- 2013/06/30(日) 09:15:19|
- 北海道
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今までの旅3回は、道の駅浪岡で裏のりんご園公園を散歩しながら車中泊し、道の駅浅虫温泉のパターン。
浅虫温泉では3回共、見事な夕日の旅でした。
今回は浅虫で車中泊せず、午後のフェーリで本州を離れることにしました。
でも、浅虫温泉の顔を見たく回り道をして寄りましたよ。
浅虫温泉に着いたのが、10時頃、フェリーは14時40分で本州の旅最北端の地を歩く事に。
3回の旅車中泊で、奇麗な夕日を見せてくれた、夕やけ橋から。

同じ場所で前年の夕日ですよ。

道の駅裏には、歩いて数分で浅虫温泉駅ですよ。ローカルな感じですね。乗ってみたくなる。
1度、列車で青森市へも行きました。

駅前には、温泉の町ですね。足湯が。
車中泊の時は寝る前がお進めですよ、寝付きが良く成ります。

フェリーまで時間がある、山側の集落に向かい歩く事に。
古い時代の浅虫温泉も見る事が出来ましたよ。

お年寄りが2人散歩。のどかな風景でした。
この当たりで、裏の公園に樹齢400年の赤松がある看板が。気軽に行ってみる事に。

小さな裏山に見えましたが、最初から急な坂。でも見晴らしは良い。

今まで、すべて杉山ばかり。赤松の風景も気持ち良い。浄土ヶ浜が似てる赤松なのでしょうか。

急坂が続き400年の赤松は近くでない事を覚悟する。
風が無い、湿度が高い。飲み物持参してない。散歩する人にも逢わない。少し不安が。
巨木赤松に逢わずに引き返すわけにいかない。赤松も少し太く成りましたね。
赤松だけの山でしたよ。

ようやく巨木赤松入り口の看板。ここから、急な下り道に。

ようやく到着です。写真ではあまり感じませんが、回りに比較しかなりの大木でしたよ。

時計を見ながらの帰り道に成りましたね。

別コースで下山すると、稲荷神社が。
今回の旅ここまで、何事も無く満願成就出来たことに感謝し参拝してきました。

このフェリーで本州を離れました。
船内に入ると1人の青年が、オジサンシャワーして来ませんかと。
山登りして来た事が、体見て分かったのかな。出航前にシャワータイム。最高。
聞くとバイクで2度目の北海道ツーリングだそうです。

田舎育ちが、本州の故郷風景の中に入り歩いて来ましたが。
本当の故郷北海道を目指して。

道の駅森を目指し、函館の郊外に出た頃北海道の夕日が。

この旅、沢山夕日を見て、紹介もして来ましたが、この夕日は無事に御苦労さんに見えましたよ。
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- 2013/06/29(土) 09:38:13|
- 青森
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道の駅いなかだてより、弘前市を通り28号線でアクアグリーンビレッジANMONを目指す。
美山湖周辺で大規模な工事が有り、細い道と工事区間が長いので、安全運転と予定時間に余裕を持たす
必要が有りますよ。
前日の田舎館での、夕日を紹介しますね。

アクアグリーンビレッチANMONの広場に、桂月の石碑が。
『大瀑の 底までは見えぬ 紅葉かな』

白神山地入口に来ましたよ。11年前にはここを通り日本海に抜け12湖観光しましたが。
白神山地を歩く事は出来ませんでした。今回念願がかなう事になりましたね。

暗門の滝は残雪多く、閉鎖されてました。ブナ林散策道を歩き暗門の滝コースに合流し川に沿い
少し歩いて見ることにしました。

遊歩道は整備されてましたよ。

白神山地は明治、大正、昭和の初期にわたり薪や木炭を生産するために伐採した跡地に、切り残した
親木から落ちた種子が芽を出して出来上がった、二次林でほとんどがブナのようです。

場所により、前年の落ち葉がフワ、フワでジュータンのようで足も軽く成りましたよ。

暗門の滝コース、閉鎖で今回はこの滝でガマンですね。

造林が出来た時代の切り株ですよ。

山地に日が差す所では、目もまぶしいくらいの新緑でした。

世代の引き継ぎが芽生えてました。
ブナの種子は1㎡、100〜300粒落下しその半分は、ネズミに食べられ、春に発芽するのは50〜100
だそうです。

高度を上げました、川のエメラルドグリーンが見えました。

時期が早く、花を見ることは出来ませんでした。こんなツボミが。

遊歩道にイタヤカエデでの種が。プロペラのように風に乗り、遠くに子孫を残す仕組みです。
自然は考えるものですね。

少し遠くを見通せるところに出ました。

一ヶだけ白い花が見つかりました。

ブナ林から暗門の滝コースに出ました。川風が気持ち良い、汗が引く感じでしたよ。

左に見える細い道が遊歩道ですよ。雨の日、上流で雨が予想される時は、要注意ですね。

川巾が狭く成って来ました。ここで残念ですが引き返しました。

トチの花ですよ。実の渋を抜いてとった澱粉で、トチ餅を作りますね。
ピンポン玉の大きさに成るそうです。

暗門の滝コースは残念でしたが、気持ち良い汗を約3時間かいて来ました。
山地入口管理事務所の青年に白神山地について詳しく説明してくれました、ありがとう。
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- 2013/06/28(金) 09:33:06|
- 青森
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道の駅奥入瀬で、黒石市に重要伝統的建造物群保存地区の『中町こみせ通り』が有る事を知り歩いて来ました。
途中に谷地温泉、湿原遊歩道。須ヶ湯温泉近くに睡蓮沼も有り、ここも歩く事もできました。
谷地温泉は、前回の旅で入浴だけで終ってました。
日本三秘湯の一ツと言われ、開湯400年に成り高田大岳の登山口にも成ります。
谷地湿原入り口に成りますよ。正面の山が黒森山(1022㍍)です。

行き止まりの秘湯温泉、谷地温泉。

温泉前から遊歩道に入りますよ、整備されてました。

湯の湧く沼が有りましたよ。

奇麗なピンクでしたね。

積雪量でニュースに成る須ヶ湯温泉近くの睡蓮沼も歩いてきました。
水芭蕉が花ざかりでしたね。北海道の花より少し小さいかな、高度が高い性でしょうか。

睡蓮沼です。正面が高田大岳に成りますが、曇りで八甲田は見えませんね。
スイセン科のエゾヒツジグサが自生してることから、睡蓮沼と呼ばれるそうです。

高山系の湿原の花が咲き出してましたよ、これを目的に写真グループの方が居ました。

その方が教えてくれました、イバイケソウですよ。

須ヶ湯温泉の残雪です、ニュースに成るのが分かりました。

今の時期、竹の子シーズンでした、私も1本ゲット。

黒石市に入りました。
この地方に黒石津軽家が創立されると、侍町、職人町、商人町など出来ていき、現在の町並みの基本に
成った歴史のようです。
その中の一つ商人町の中町が保存され『こみせ通り』として重伝保存地区指定に成りました。
歩道には、木造のアーケードが有り、雨、雪から歩行者を守り商人町として栄えたようです。
通りには、造り酒屋が多く目につきました、呉服屋、餅屋等も残ってましたよ。
アーケードの柱には、所々に鉄の環が打付けられてました、地方から米や木炭を運んできた、馬の手綱を
つなぐための環でした。
鳴門家住宅です。
市指定文化財で、文化3年(1806年)に創業された造り酒屋で一般的に『菊乃井』で知られてますね。

木造のアーケードが続きます。

盛屋

重要文化財の高橋家です。米屋、味噌、醤油、塩等の幅広い商家だったそうです。

通りの反対側にも同じアーケードが続きました。

大正13年に建築されました望楼付き、中町消防部です。木造2階。

松を守るため、アーケードから松が。元風呂屋さんですよ。

中村亀吉酒造です。NHK 大河ドラマ『いのち』の舞台になった酒造店です。
左の屋根上に見える大きな玉垂(たますだれ)は新酒が出来たと時上げるそうです。杉玉です。

道の駅いなかだてに向かう時、岩木温泉に入りましたが、そこで岩木山が。
いなかだて道の駅は、田舎に有る道の駅だよ、と言う東北のジョークだと思ってましたが。
本当に田舎館村がありましたよ。

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- 2013/06/27(木) 12:33:12|
- 青森
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北上しました。
どこの、入り江の港、集落でも復旧工事はしてましたが、工事量が多いのでしょうね。
形としてまだ見えません。優先順位で進めてるのでしょうね。
宮古市の浄土ヵ浜に下りて見ました。11年前と何の変わりも有りませんでしたよ。
前の大きな島々が、守ってくれたのでしょうか、松島も被害が軽減されたニュースを見ましたね。
宮古市の道の駅は、仮オープンしてましたが本格オープンに向け工事中で7月まで休駅中です。
駐車場は開放されて居り、お世話に成りました。トイレは浄土ヶ浜の方に10分程行くと有りますた。
浄土ヶ浜は景勝地で何カ所も遊歩道が有りますよ。
ここが浜の入り口に成ります。

細い遊歩道を下りていきます。

御台場展望台に向かうところで、エメラルドグリーンの色が見えてきました。

表現が私には難しい景色です、奇麗では表現不足のような。

この多くの島が浜辺の建物守ってくれたのでしょうか。

御台場展望所から下りる所から。

かなりの高さですよね。

日本の一流の庭師が選定したようです。どこを見てもそうですね。
自然が造る木の形、枝振りって素晴らしいですね。

白い石の浜辺に着きました。

落ち着きます、また、この日は天候が絶好でしたよ。

ここも、風景と松の形が何とも言えませんね。

カモメが岩で休憩です。贅沢なカモメですね。

遊歩道を大分歩いて来ました。

白い岩と岩の間に緑の小島です。

団体の写真ポイントです。
遊覧船も出てましたね。

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- 2013/06/26(水) 07:32:58|
- 岩手
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遠野市から陸前高田市に入りました。
それは、今年4月12日札幌市で
東北観光フォーラムに参加したのがきっかけでした。
道の駅陸前高田は姿を変えて有りました。
私は11年前の車旅で、ここの道の駅で2日間お世話に成りました。
11年前は気ずきませんでしたが、道の駅の裏は建物が展望台に成っていたのですね。
そこで、地元の印刷業を経営されてる K さんに話を聞く機会が有りました。
涙が止まりませんでした。
展望台の階段に13、7㍍の位置に津波のマーキングが有りました、その位置から階段が4〜5段
しか有りませんが、そこで3名の方が救われたそうです。
そこから見える風景は、11年前に松原に散歩した時通った橋しか有りませんでした。
言葉が有りません。K さんの前でしたが涙が止まりません。
K さんは、後世に伝えようと写真を撮っていたそうです。
K さんも、当時避難後自宅に帰ると土台しか無かったそうです。
K さんと別れ奇跡の1本松まで歩きました。

高台方面では、住宅移転の復興の土音がしてました。

先日通過した一関市の『まつるべ大橋』です、岩手宮城内陸地震で国道342号が大きな被害を受けた時の橋です
現在展望台が有りました、自然災害に備えなさいと言う意味だと思います。

道路には復興之碑が。東北大震災の各地にも1日も早くこの碑が建つと良いですね。

私にはこれが精一杯のアップです。
ニュースでは、高田松原の松ぽっくりから、新芽が出た話も有りました、
先人が築いた松原、引き継がれると良いですね。
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- 2013/06/25(火) 07:25:07|
- 岩手
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千葉家は道の駅から近い所に有った。見学する事に。
曲り家とは、L 字型の家の事で母屋と馬小屋を直角に連結した農家のことで遠野と盛岡に多かったようです。
千葉家は見晴らしの良い小高い丘の中腹に石垣を築き、約800坪の敷地に、曲り家を中心に土蔵、納屋や
社まで有りました。馬20頭の豪農だったそうです。
夜寝る時も、馬の気配を感じながらの生活だったのですね。
小高いところに千葉家は有りました。五棟が国指定重要文化財。

坂を登って行くと桜と桂の宿り木が、根の部分が一緒に見えましたよ。

曲り家住宅です。左が馬小屋、右が母屋になります。
驚いた事に現在も生活してました。

馬小屋ですが、五ヵ所有りました。馬小屋と母屋の間は土間に成ってました。
北海道にも昔、L 字では有りませんが似た形の住宅有ったように記憶してますが。

正面が母屋です。

これからの、写真は昔の農家経験者しか分からないと思いますが家族にいましたら見せて下さいね。
懐かしいと思いますよ、私は子供の頃ですが、懐かしくしばらく眺めてましたね。
これは、穀物の選別機です、手で風車を回しゴミを飛ばし選別します。

縄編み機ですね、この機械が有る農家は少なかったですね。
稲わらを入れる口が2ヵ所有り、回転させながら入れると縄が出来る仕組み。
入れる口は右側です。

これは、今でも本州では見かけるかもしれませんね。

餅つきの臼ですね。千葉家は物を大切にした事が分かりますね。
古く成った臼も取ってあったのですね。

水田の除草機です、稲が小さい時に使う除草機ですね。
これを押して使うのですよ。これは私も使った事が有ります。年齢が分かりますね。

古い家庭用道具、日用品などです。千葉家はすごい。使わなくなったら捨てますよね。

タンスです。

ナガモチ付き物ですね。

大工小屋です。千葉家では専門の大工職人が居たそうで、これは江戸末期の建物です。

母屋の裏から。

稲荷社です。京都の伏見稲荷を分霊し千葉家の氏神としたそうです。

カド『川戸』と記し、千葉家の生活用水だった所です。

石蔵です。大正14年建築で、味噌蔵として使用。

土蔵です。明治45年建設で穀物を入れたそうです。

千葉家から回りの風景です。

私には故郷に帰ったような時間でした。
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- 2013/06/24(月) 06:10:28|
- 岩手
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中尊寺を参拝してきました。
歴史の深さ、規模の大きさに言葉も無い気持ちの参拝に成りました。
境内全域が特別史跡の指定を受けており、850年、慈覚大師の開山なのですね。
惜しくも14世紀に堂塔の多くは焼失してるのですね、その中で金色堂始め3千余点の国宝、
重要文化財を伝える平安仏教美術の宝庫となる物は残された来たのです。
参道を登ります。

月見坂の参道になります。

八満堂。

弁慶道、文政9年再建と有りました。

弁慶堂のきめ細かい彫刻です、鎌倉彫と有りましたよ。

登って来ました。集落です。

堂塔が続く中参道を登ります。

薬師堂です。

中尊寺山門に着きました。

本殿で参拝。

峯薬師堂
除病安楽、息災離苦を消滅させてくれる御仏として古くから信仰されているそうです。
特に目の御守だそうですよ。重要文化財。

大日堂です。

梵鐘です、1343年に鋳造された鐘で、長い年月の打鐘でひずみ、現在はこの鐘の音を聞くことは
出来ないそうですよ。

世界遺産の金色堂ですが勿論撮影禁止です。外観だけ。

釈迦堂です。

この参道を歩いて、あらためて歴史の深さを感じましたね。

白山神社能楽殿です、国指定重要文化財。

能舞台に成ります、仁明天皇が(850年)建立。
豊臣秀次、伊達政宗も観覧され、明治9年には明治天皇も天覧した歴史があるそうです。

舞台正面に描かれた、松の絵です。

帰り道の参道でこんな木が。皆仲良くの意味でしょうか。

ゆっくり歩き参拝してきましたが、かなり時間が掛かります。
日本も外国に負けない、歴史が有ると言える。そんな驚きの参拝に成りました。
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- 2013/06/23(日) 06:54:26|
- 岩手
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道の駅厳美渓から、平泉に向かってると達谷窟毘沙門堂の案内が参拝する事に。
1200年の歴史ある、達谷西光寺でした。
九州、臼杵地方に多い磨崖仏もこの地に有った。国指定の史跡を通り過ごすところでした。
鳥居を三ヵ所通ります。

大きな岩の下に毘沙門堂が、なぜこの場所なのか意味が有るのでしょうね。

本堂で参拝。

磨崖仏の岩面大仏です。高さ16,5㍍顔の長さ7,6㍍肩巾9,9㍍で、全国で五指に入る大像で北限の磨崖仏。

行事が有る時皆さんが集まる所のようです。

世界文化遺産の毛越寺を参拝しました。
奥州藤原氏の二代目、三代目が造営し、当時は中尊寺をしのぐ規模で当時の堂は焼失したが。
堂や庭園の遺跡が良好な状態で残されています。境内に広がる大泉が池は、修復整備され平安時代の浄土
庭園の素晴らしさが見られました。
毛越寺正面です。

本殿です。

池の回りには参道が続き、堂の遺跡が続いてました。

アヤメです。

大泉ヶ池

アヤメが本当に見頃でしたよ。

開山堂で、毛越寺開山慈覚大師をおまつりするお堂です。

嘉祥寺跡。本尊は薬師如来。

素晴らしい庭園でしたね。

大金堂跡です、基礎の大きな石の位置から堂の大きさが想像できました。

遣水(やりみず)です、山水を池に取り入れる為の水路ですが、谷川を流れ下り更に蛇行しながら、ゆったりと
平野を流れる川の姿を表現してます。

常行堂、1732年に再建された建物です。

遣水の宴がこの場所で行われたのですね。
流れる着物姿と、平安女性の長い髪が想像できましたよ。

その風景です。

池を一周し最後の参道に成ります。

北海道には無い参拝風景落ち着いた気持ちにさせてくれました。
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- 2013/06/22(土) 08:15:21|
- 岩手
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湯沢市から、栗駒山麓を通り一関市道の駅厳美渓にお世話になりました。
厳美渓は、なぜこのような景観にと不思議に思う程の渓相をしていましたよ。
石英安山岩質の岩石が、滝や川の流れに浸食されて谷頭が後退し、今の美しい景観に成ったそうです。
これからも、長い年月で景観が変わる事も意味してるのでしょうかね。
厳美渓には三ツの橋が有りますが、私は一番下流の橋から入り一周歩いてきましたよ。
温泉神社が有り参拝してきました。
左の大木はエドヒガン桜で、重要指定天然記念物です、本州、四国の山地に自生する落葉木で『厳美渓』
の左岸には伊達政宗公が植樹したと言われてるそうです、地元では『貞山桜』と呼ばれ、樹齢は400年
ぐらいだそうですよ。

下流の橋は吊り橋でした、その時は私1人の通行でしたが、ゆれましたね。

吊り橋から上流を見て見ました。

アヤメが奇麗でしたね。

臨泉亭跡です、伊達政宗公は松島と厳美渓は我が領地の二大景勝の地であると自慢し、しばしば厳美渓
に来て、風景の良いこの場所に、臨泉亭と言う茶室を作り楽しんだそうです。

林の間から厳美渓を。

しばし鑑賞下さい。

中間の橋から、皆さんここから観光に入りますね。

皆さんが集まる、空飛ぶダンゴの場所です。

注文は木づちで木の板をタタキ、籠にお金を入れますよ。
籠は対岸のダンゴ屋さんに向かい、ワイヤーをつたい引き上げられます。全て人力。
団体が入ると大変。

ダンゴはお茶と籠に乗り、手元に。お茶は一滴も溢れてませんよ。見事。
ダンゴの入った籠と、編集で取り違えました、すみません。ダンゴ入ってると想像して下さいね。

厳美渓でも一番の渓相の良い所に成りますよ。

この当たりで、福島からこられた方と逢いましたよ、一関で60歳代のグループのコンサートが有り
厳美渓観光にも、来られたようです。
ダンゴの所で写真を撮って帰る方がほとんどですが、自然を歩くのが好きな方なのでしょうね。
一周してると何人かの方には逢いましたよ。

10年前には無かった公園も整備されてました。

ダンゴタイムですよ。

鑑賞タイムです。

何年の歴史でこのように成ったのでしょうね。

一番上流の橋に来ました。意味の有る橋でしたよ。
長者滝橋で、竹筋橋とも言うそです。驚きました登録有形文化財でした。その理由は。
竹の棒をコンクリートで固めて造った橋で、昭和14年に造られた橋で、アーチ中央から数カ所の
竹の棒の破片が発見され判明したそうで、戦時中の鋼材不足を補ったと考えられ先人の知恵として
貴重な財産として守ってるそうです。
歩いてると、思わぬ物に出会える事がありますね。

道の駅に戻る時、2色の色をつけた木が。

10年前には道の駅が有りませんでしたが、今回は道の駅から歩ける距離。
ゆっくり散歩させて貰いました。
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- 2013/06/21(金) 08:58:26|
- 岩手
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資料によると、ここの森林伐採事業は江戸時代から続いていたが、明治時代に需要が高まり
事業が拡大していき、当初はいかだに組んで川に流していたが、明治後期になり森林鉄道が整備されたようです。
ここ皆瀬川トロッコは、昭和40年運行され、約8㎞の距離だったそうです。
現在は山菜、渓流釣り、森林浴として親しまれてるようです。
雨上がりの湿度の高い日でしたが歩いて来ましたよ、V 字渓谷、岩盤の露頭、ブナ林など線路跡だけに
急な傾斜はなく、気持ちよく歩く事ができましたよ。
雨上がり、朝つゆが葉の上に。

朝つゆの花奇麗でしたよ。

人面岩ですよ。分かるでしょうか。ほぼ中心です。

露頭の岩盤に石像が、かわいい表情でした。

こんな厳しい渓谷にトロッコを、大変だったと思います。それだけ林業が盛んだったのですね。

この道は何となくトロッコ道の感じしますね。

線路保護の痕跡がありましたよ、路肩保護ですね。

こんな急カーブの川も渡ったのでしょうね。

急流ですが、大きな岩で川を守ってるように見えませんか。

木の間から渓谷です、この当たりが猿飛峡なのですが下り口が分かりませんでした。
V 字が近く、猿が飛び越えて渡るそうですよ。

線路道です。

巨木が風雪に負けたのでしょうか。

台風では、暴れ川が想像できますね。

川を渡る線路跡ですよ、腐食で危険渡るなと。

横から、約3時間の線路跡の散歩でした、国道に戻ると奥小安の大湯温泉が有ります。
トロッコ道入り口の看板も無く私はここ、大湯温泉で話を聞きました。

厳美渓に向かう342号線から見た栗駒山です。
しかし、平成20年6月14日岩手宮城内陸地震で大きな被害を受けた所なのです。
峠の須川から真湯間約15㎞は道路が完全に消失した、大規模崩落四ヵ所を含む8、4㎞が大きな
被害を受けたのです。
峠を下りると展望台が有りました。
大きな鉄の橋が崩落してる姿が有りました、自然の脅威に常に感心を持ち生活しなさい
との、忠告に見えました。

ぶなの恵みの水美味しかったですよ。

そこに、復興之碑
東北太平洋側にも、早くこのような復興之碑が建つことを祈ります。

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- 2013/06/20(木) 07:09:19|
- 秋田
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天気予報悪く、ブログ予約投稿を昨日セットし、小安、奥小安を目指しました。
小安峡温泉は『子宝小町の湯』として昔から狩人、村民ら広く利用されていたそうです。
小さな温泉集落として、V字渓谷の上に有りましたよ、観光案内所も用意されています。
大噴湯を歩きました、皆瀬川が長い年月を掛けて刻んだ約8㎞のきびしいV 字谷で、国道から川底まで
60㍍の高低差があり、急な階段を下りることになりますよ。

ようやく、皆瀬川に着きました、遊歩道が有ります。

岩の割れ目、すき間から湯が。

V 字渓谷を渡る赤い橋が見えました。

流れ落ちる湯の岩盤は温泉による硬化作用で、カチカチに硬くなってましたね。

一番湯けむりの多い所です、遊歩道は続いてますので渡れる時あるのでしょうか。
近くには、地熱利用の研究施設もあるそうです、熱を利用したハウス栽培もしてるそうですよ。

湯が川になり流れてました、これを使い無料の露天風呂、いいですね。
そんなスタイル玉川温泉に有ったそうです。

帰りです、高い所から橋も入れて。

女滝沢森林浴を歩いてきました。

スタートしました、雨上がりで湿度が高いのは覚悟でしたね。
当然一人じめの森林浴、案内書、鈴、水、オヤツは持参しました、予想通り誰に逢うことも有りませんでした。
途中分岐が何カ所かあり、2〜3時間のコースです。準備は必要と思いました。

管理はされて居り、整備はされてました。

何カ所か急な所があります。森林浴しかたありませんね。

本当に森林浴の雰囲気ですね。

ミズバショウ群生地の小さな池です。

ブナの巨木が多く成って来ました。
最初は杉林で、だんだん広葉樹に変わりました。

ようやく、終点近くです。この時は汗まみれ、靴は泥まみれ。

この地域の温泉量の豊富な事が分かりました。
自噴してるのですね、大噴湯の岩盤見たら当然ですよね。

観光案内所の向かいに共同浴場が有り、汗を流して来ました。
駐車場前に水道の付いた流しがあり、洗濯も、助かりました。ありがとう。
駐車場で軽トラックの幌付きで旅をしてる方に逢う、何と旭川の方でした、私も近郊の田舎育ち。
犬との旅を楽しんでるそうでした、小安には2日程居たいと。
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- 2013/06/19(水) 08:24:27|
- 秋田
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小野小町は平安時代の美人の歌人ぐらいしか知りません。
ここ道の駅雄勝の近くが、伝説小町の郷で有る事を知り歩いてみましたよ。
小野小町は平安の歌人で、1200年程昔、出羽の国福富で生まれました。大変な美人で13歳
にして都へのぼり、都の風習や教養を身につけ、その後20年程度宮中に仕へたのですね。
容姿の美しさと、すぐれた才能から多くの女官中並ぶものなしと言われていたが、故郷恋しさに
36歳の時小野の里に帰郷、92歳で世を去ったそうです。
頂いた資料に有った歌です。情熱的な恋の歌が多いそうです。
『花の色は移りにけりないたずらに
我が身世にふるながめせし間に』
小野小町の看板が大きく有りましたよ。

道の駅の前庭に見事な盆栽(岩栽?)が、紹介しますね、値段が付いてました40万円。

二ツ森です、手前が男森、奥の小さい方が女森に成りますね。
男森は深草少将の墓で、女森は小町の墓といわれてるそうです、深草少将は小町を追ってこの地にやって
きたのです。

小町堂です、小町を奉る御堂として、昭和28年に建てられたそうで、近くには芍薬塚もあるそうです。
深草少将が逢瀬を夢見て芍薬を99本植えてなくなったと言う悲話だそうです。

御堂です。

小町の産湯の井戸、母の墓の場所に向かう農村風景ですよ。平安時代の風景を想像しますよね。

桐木田の井戸風景です。
小町の父、小野良実の館のあったところで、福富の荘と言われてたそうで、当時としては珍しい
桐の木があったことから、桐木田と言われてた。

産湯の井戸。小町の産湯の井戸として保存されてきたそうで、自然石が五角形に組まれており
この地方には無く、小町の年代に都を中心に多く見られることから、平安初期の貴重な遺跡だそうです。
深そうに見えましたよ。

小町の母の墓のばっこ石です。
母、大町子は村長の娘で小野良実と結婚しましたが小町が幼い頃亡くなったそうです。

歩いていて気づきました、水田の稲が大きく成ってる。
今回の旅で本州に来た時はまだ、田植えもしてない田が有ったのに。

御返事の場所です。深草少将が小町に恋文を送り返事を待った場所です。今は地名にまで成ってる

近くを歩きました、雰囲気からこの当たりかなと。

道の駅に戻り、近くに温泉を聞いてみました、有りましたよ。
山奥の一軒宿、日勝館です。宿で行き止まりの道です。

日勝館です、車が5台くらいの駐車スペースの崖地です、大きい車は少し手前から歩き進めます。

温度が丁度良い調節で、長風呂出来ますよ。88歳の方と2人風呂でした。
24歳の時、帯広の近くで山仕事に行き寒かった記憶しかないそうで、北海道の懐かしい
思い出を、沢山話していただきましたね。昔の木材の山仕事は冬でしたよ。
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- 2013/06/18(火) 08:16:03|
- 秋田
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天童市から北上し尾花沢市より、347号線を想定しドライブしてました。
カーナビはかなり、手前で右に曲がれと言う。 近道かと了解曲がりましたよ。
しばらくすると、車1台の通行分の車線と急カーブ、急傾斜引き返す事もできない。
対向車が来たらアウト。まれに交叉する所は有るが、行くしかない。約10㎞は有りましたよ。
1台も車には逢いませんでした、ホットため息ですね。青年の自伝車に逢いましたよ。
すごい、乗ってるのです、本格的な競技用だと思いますね。後でネットで調べると背あぶり峠らしい
号線も無いのかな?
通過した私もすごいですが、そこを案内した、カーナビもすごい。
峠を下りたすぐの、山深い奥に集落が有り歩きたい気分になり、歩いてみました。

この石碑には、文化八年、湯殿の文字が、裏には家頭山。

げんき延命地蔵堂でした、集落の守り地蔵堂なのでしょうね。

所々にこのような集落が続きましたよ。水田農家が多いようです。
本州の歴史の深さを改めて感じました、奥深い集落に文化八年の石碑が。

銀山温泉に着きました、NHK の連続テレビ小説『おしん』の舞台となったことで一躍脚光をあび
全国的な温泉場になりましね。
ここは、2回目の訪問に成りますが、見る温泉、写真の温泉の感じがしますね。
私もその1人ですが。ここから歩きます、車で入るとUターンが出来ませんよ。

温泉街の入り口になりますね。

脇本長兵衛、古山閣です。ここの、こて絵が素晴らしいですよ。
昨年は気がつきませんでしたね、少し見上げてください。

こて絵は左官職人による彫刻です、三階の宝船です。

二階部分には10枚ほどのこて絵の展示がありましたよ。

銀山川の両岸に大正から昭和にかけての建築の旅館が立ち並んでます。

銀山川下流から温泉街をながめると、大正時代の風景とかさなりますね。

橋が10以上あります、開湯はこの地に有った銀山の工夫が銀山川の中に湧いている温泉を発見した
のが始まりだそうです。

奥の上流まで歩いてきました、『はいから通り』と有りました。

一番奥に滝が。

銀山坑道です、昔ですタガネ彫りの跡が分かりましたよ。

帰りに温泉街を。

日帰り入浴をお願いすると、3時を過ぎると宿泊客が入り駄目なのですね、
そうですよね、でも、安心汗を流す所は有りましたよ、管理人はいませんが、300円を入れる
箱があり、入浴可能でした。草津温泉と同じくらい温度高い、自分で調節ですよ。
ここが一番大正ロマンの風景でしょうか。

ゆっくり、歩かせていただきました。
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- 2013/06/17(月) 08:27:23|
- 山形
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月山から天童市に向かう、左に月山の雪渓が見え素晴らしいドライブとなりましたよ。
天竜市に近くなるにしたがい、サクランボ農園ばかり、これだけのサクランボ何処へ行くのでしょうね。
道の駅天童温泉で山寺参拝の情報を得る。昨年はサクランボを購入して通過しただけでした。
今回も購入しましたが、食べて写真が有りません。
昨年の写真(クリック)がこれです。
道の駅では、手作りの地図を用意親切に説明を受けましたよ。
温泉の地図も用意いただきました、山寺参拝の汗を流せましたね、ありがとう。
参道入り口です。

根本中堂です、国指定重要文化財。

招福布袋尊でお腹ピカピカしてましたよ。

清和天皇の供養塔で国家の安泰を祈って建立されたそうです、山寺では最も古い石塔。

念仏堂です、ころり往生阿弥陀如来。
それぞれの人の寿命が来ると長わずらいすることなく、苦しむことなく、極楽浄土にお迎えくださる
念仏堂は昔から信仰されてるそうで、私も迷わずお願いしてきましたよ。
写経をして2百十六字の写経で修行を進めてるそうです。

登りに入りました。

石段は1000段近く有ります。

蝉の声が聞こえれば!!

気温高い日は飲み物を忘れずですね。

石に刻まれた修行の文字も歴史で見えなくなりました。

登りはさらに厳しくなりました、年齢の高い人も頑張ってましたよ、私もですが。

弥陀洞です、仏の姿に見える人は、幸福がおとずれるそです。

仁王門、1848年に再建されたそうです。

なぜぼとけ。幸せそうに輝いてましたね。

奥の院に参拝です。

花も、暑いのにご苦労さんと迎えてくれました。

立石寺三重小塔で中に有ります、重要文化財です。

登って来た所を振り返って見ました。

遠くには集落が。

反対側の岩壁に修行の場所が見えます、転落事故もあり遺骨の有る所もあるそうです。
厳しい修行をするのですね。

開山堂と五大塔。厳しい岩壁の上にあり、山寺一番の展望台でしたね。
下から吹き上げた風が最高。

そこからの集落風景に成ります。

せみ塚です。
芭蕉の句をしたためた短冊をこ地に埋めて、石の塚を立てたもので、せみ塚といわれている。

天童道の駅に戻り、情報をいただいた温泉で参拝の汗を流しました。
道の駅から歩ける距離、100円、紹介ありがとう。
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- 2013/06/16(日) 06:40:44|
- 山形
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道の駅月山を起点に、羽黒山、湯殿山を参拝して来ました。
月山は、羽黒山から、又、天童市に向かう所々で残雪の美しい姿を見ることが出来ましたよ。
羽黒山の参拝。
今から約1400年前羽黒山を開かれたのが、出羽三山の始まりで羽黒山は三山の神々を
合祀するお山であると同時に『羽黒派古修験道』の道場として今に伝わってるのですね。
羽黒山は414㍍で五穀豊穣、災難消除、家内安全、子孫繁栄の神様です。

参道入り口に成ります。ここから羽黒山本殿までは2000段を越える急な石畳坂になりますよ。

山頂に至る約2㎞の参道には、樹齢300年〜600年の老杉が生い茂り、石段は2446段に成ります。

皆さん見上げるばかりです。見事の一言です。

所々に小さな神社が見られました。

小川に赤い橋が。神橋と言うそうです。昔、参拝者は川で身を清めて参道を登ったそうです。

羽黒山、月山、湯殿山三山の石碑が参道に。

羽黒山の爺杉ですよ、天然記念物で根元11㍍、樹高48㍍、樹齢1000年です。

花も迎えてくれましたね。

登りが続きます。

修行者の気持ちが少しばかり分かりましたね。

国宝の五重塔です。杉林に突然現れました。歓声の声を出しそうに成りましたよ。
古記によれば1050年前に立てられたそうです。1000年以上前の物と思えない風格と落ち着き
を感じました。

さらに登り私は二の坂茶屋の当たりで下山し、車で山頂に。老体ですね。

山頂大鳥居です。

巨大な梵鐘と本殿になります。

本殿は茅葺き屋根の改修中でした。
三神合祭殿で、国の重要文化財に指定、月山、羽黒山、湯殿山の三神を合祭した日本随一の大社殿
厚さ2,1㍍の茅葺き屋根、総漆塗りの内部に成ってます。

頂上にも花が。

龍の見事な細かく、繊細な彫刻を見ましたよ。網で守ってました。

ここにも、小さな多くの神社が。

帰り道、見事な月山の残雪風景です。
雲に隠れてましたが、展望台で待つこと、しばし、姿を見せてくれました。
登山には、冬装備が必要ですね。1984㍍で、大魚満足、厄よけ開運、延命息災の神様です。

湯殿山は車です。山頂は1504㍍で国土安全、夫婦和合、縁結び、安産、交通安全等の神様です。
残雪で涼しそうですが、暑かったですね。

大鳥居です。巨大。

近くを歩いて見ました。滝が有りましたよ。

湯殿山は本殿と言うものは無く、鳥居から奥に本宮と表現してましたが、湯の出る小さな山が有り
それを本宮と言ってお参りして来ました。
そこえはハダシで参拝です、湯の出る山に登るのです。何故か撮影禁止。

2446段の参道参拝は出来ませんでしたが、月山も姿を出してくれ満足な気持ちでお願い
参拝することが出来ました。
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- 2013/06/15(土) 08:40:44|
- 山形
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暑い毎日ですね。
日本海から、少し内陸に入りゆっくり歩きたくなり、関川村道の駅にお世話になりました。
温泉も多く、そして歩くには最高の所でしたよ。村民の憩い、村外からの訪問に力を入れてる気がしました。
道の駅の近いエリアに荒川峡、鷹の巣、丸山大橋の遊歩道があり歩いて来ました。
荒川峡、鷹の巣です。
ここのつり橋は『新潟の橋50選』に選ばれてるそうで、秋の紅葉のシーズンは素晴らしそうですね。

このつり橋は、かなりゆれましたよ。

橋より上流。

つり橋全景です、風景とバランスした景色ですね。秋はすばらしいでしょうね。

橋を渡り丸山大橋に向かう遊歩道を歩きます。
木陰と川からの風が気持ち良かった。親子4人で楽しそうでしたね、
この4人とは、この後追いついたり、抜かれたりでしたね、私が写真をしてる時抜かれる
下の子が、オジサン1人なの寂しく無いのと話してくれました、ボクが居るから寂しくないよと。

私は川に沿った遊歩道を歩きましたよ、丸山大橋まで行けますが距離が有ります。

荒川の清流が奇麗で、ここもイワナが居そうですね

岩盤より、水が。

かなり歩きました。疲れは感じません。

帰りにキャンプ場に寄って見ましたよ。
山の地形を生かした、広大な面積のキャンプ場でした、

丸山大橋に寄って見ました。大橋から見た関川集落方面です。

大橋です、長さ175㍍、高さ44㍍、アーチの長さ118㍍と有りました。
アーチ形としては、日本一と記されてました。

道の駅に戻り、集落を歩きましたよ。立派な資料館が目に留まりました。

重要文化財渡邊邸の堀に鯉が、この鯉は小千谷市立東小学校の生徒が育てた鯉だそうです。
鯉の生産集落で過去の中越地震で被害を受けたニュースが有りましたが、ここの鯉を見て安心しました。

国指定重要文化財の渡邊邸は1667年現在地に移転したそうで、廻船業、酒造業を開業し
75人の使用人、1千ヘクタールの山林と七百ヘクタールの水田から、1万俵の小作米を収納したと伝えられてる
豪農だったのですね。この奥まった集落で想像できません。

広大な敷地です。

道を挟み隣に分家が、1905年建立で村の文化財。

山側に向かい歩く、小学校が有りました。
山裾で、緑多い静かな学校ですね。

のどかな集落が続きます。

高い所まで歩きましたよ、集落です。右のレンガ色の建物が役場に成ります。

国指定重要文化財の佐藤邸です、この集落の歴史すごい。
1765年建築、東西南北の四面の茅葺き屋根は年を追って一面づつ順に茅を替えている、佐藤家は
街道きっての旧家で祖は16世紀末にさかのぼりそうです。道産子には信じられない歴史。

道の駅の夕日を紹介しますね。

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- 2013/06/14(金) 08:14:00|
- 新潟
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新潟市を通過し北上すると、日本海に面した所に出雲崎町は有りました。
新潟県のほぼ中央の日本海に面し約10㎞の海岸線を持つ町でしたよ。
紙風船の生産量は日本一、良寛生誕地で、江戸時代には天領地として佐渡の金、銀の
荷揚げ場として栄えたそうです。驚いた事は近代石油産業発祥の地だったのですね。
道の駅に車を置かさせてもらい歩きました。
急な階段を上がると諏訪大社が、参拝してきましたよ。

近くに、日本海の厳しい冬風に耐えた木が目に入りました。

出雲崎の『妻入りの街並』は江戸時代、出雲崎は徳川幕府の天領となり、佐渡の金銀陸揚げ港として、
また、北前船の発着港として栄えたのですね。
北国街道の宿場町としても栄えたそうです、当時の妻入りの街並みを保存し見て貰う取り組みも
してましたよ、資料館が有り、お年寄りがボランテアで説明をしてくれましたね。

驚いたのは、ここが日本の石油発祥の地でした、新潟県に古くから有ることは知ってましたが
内陸だと思ってましたね。
網堀式石油井戸Cー2号で、宝田石油会社が掘削し、明治30年より昭和60年まで使用された井戸です。
深さは649㍍で、近くにまだ2本有るそうです。

くみ上げポンプです。

代官所跡です。
元和2年(1616年)に徳川幕府はここに代官所を幕府直轄地としたのです。
佐渡の金、銀と関係あるのでしょうか。

石碑が建ってました。

歩いてると、遠くからトーフの笛の音、リヤカーでなく、車でした。

山側に歩いて行くと、良寛さんの石碑が、
『良寛禅師剃髪之寺』と有りました。

良寛さんも歩いたでしょう、参道です。

光照寺です。
良寛は安永4年(1775年)18歳で光照寺に入り22歳まで、この寺で禅の修行にはげんだのです。

本殿です、撮らせていただきました。
芭蕉も訪れ『荒波や佐渡によこたふ天河』の名句を残し、十坂舎一九、吉田松陰などの数多くの
文人の訪問が有ったそうです。

高い所からの出雲崎集落です。

奇麗に選定された松についカメラが

南北に約3、8㎞の集落です。

説明を受けた資料館です、ボランテアで詰めてるそうです、ご苦労さんですね。

のんびりした気分で歩くことが出来ました。

故郷は何処にでもありますね。
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- 2013/06/13(木) 08:34:10|
- 新潟
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松本市から、左に白馬連峰の残雪を見ながら気温は高いが何か涼しさを感じるドライブに成りました。
塩の道、糸魚川街道は糸魚川市に近くなるにしたがいトンネルの連続に成ります。
そんなトンネルとトンネルの間に、道の駅小谷は有りましたよ。温泉付き、これがありがたい。
残雪のアルプス連峰です。

ヒスイ峡は姫川の支流で小滝川の奥に有りました。(私の地図では姫川渓谷)
糸魚川街道から、林道のような細い道を登りましたね。
ようやくヒスイ峡に向かう峠の頂上です。

すばらしい風景が待っててくれました。奥の山は赤禿山と私ども高齢者には頭の痛い山ですね。
高浪の池です。

りっぱなロッジが有りましたよ。この日はここも、ヒスイ峡も私一人でしたよ
もったいない。

巨大魚が住むと言う伝説が昔から有るそうです。

この池は、赤禿山(1158㍍)の北東斜面の地すべりによってできた、すり鉢状のせき止め湖で
糸魚川で3番目に大きい池で、標高535㍍の位置にあり、最大水深は13㍍だそうです。

コバルトブルーの池

休息に成りました。
逆赤禿山ですね。

明治時代にはこの当たりは炭坑で栄えてたそうですが、思いもつかない景色ですよね。

さらに、細い道をヒスイ峡目指し走りました。着きました。

きれいな清流ですが、岩盤と岩の多い川ですね。
そんな所で感動を与えるのでしょうが。

車を置き歩いて登って行きました。
炭坑は大正時代と昭和初期で、昭和30年代に閉山されたようです。

登って来たところを振り返って見た風景になります。

左が明星山に成ります、あまりにも大きく、全景が撮れません。

登って来た方面に成ります。

かなり歩いて明星山の全景が入りました。
1188㍍が有り、ほとんどが石灰岩から成る山で、岩石の中からサンゴ、海ユリ、アンモナイト
などの化石がふくまれて居るそうです。
赤道付近に有った物がプレートの移動でこの地に運ばれたと考えれるそうですよ。
地球の歴史その物がここに有るのですね。

展望台から見た風景です。
ヒスイ峡の河原にはヒスイの岩塊が多いことからヒスイ峡と呼ばれており、日本国内の遺跡
から発見されるヒスイは、すべて糸魚川地方から産出したものだそうです。

これではヒスイ探しも出来ませんね。

ヒスイ峡の花ですよ。

川まで下りて見ました。

道の駅裏は塩の道千石街道でした、民家が数件です夜歩いて見ました。

小谷村で思いもしない観光が出来ました。
そして、高浪の池でくわしく説明いただいた青年の方、迷わず観光できました。ありがとう。
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- 2013/06/12(水) 08:11:24|
- 長野
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塩尻市、道の駅小坂田公園に車中泊しました。
中山道から離れて、景色が一変しました。残雪の残る山の風景。ブドウ園の続く農村風景。
小坂田公園道の駅は、規模の大きな道の駅で、市民も楽しむ公園が併設されてます。
夜はナイター設備の運動場でサッカー少年の声が、響いてましたよ。
残雪のアルプスに、きれいな夕日がバックでした。

翌日、姫路城、彦根城と共に楽しみにしてた国宝松本城を見学しました。
400年余の風雪に耐えた、歴史の重みと美しさは表現の言葉も見つかりません。
松本城は戦国時代の永正年代初めに造られた城ですが、城は高い所が一般的ですが、松本城は
平野にどっしりとその美しさを見せてくれました。
歴代の藩主は1590年代の石田氏、小笠原氏、戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏、1869年の戸田氏
と続いたのですね。
外堀の風景です、落ち着きの有る堀に感じました。

現在二の丸石垣を修復中ですが、その場所からの城です。

最初の門、太鼓門二の門です、一の門とは枡形でした。
松本城では、大手門、太鼓門、黒門の三ヵ所が枡形でしたよ。

江戸末期の太鼓門枡形の様子です。

堀の外から。

黒門。本丸に入る正門に成り、本丸防御の要になりますね。

黒門入った所から、素晴らしいの言葉しか有りません。姫路城は美しさと規模の大きさ。
彦根城は城の美しさ、松本城は城の美しさと全体が整備管理されてる美しさかな。

近くから。

城の骨組みです。曲がった、木材そのまま工夫してましたよ。

鉄砲頭の姿。戦いに成ると暑そうですね。

鉄砲の用具入れです。

天守閣から松本市を見て見ました。

近くから見ると、鉄砲座、矢座が良く分かります。石落とし穴も有りましたよ。

東面からの城

東面です。落ち着きを感じますね。

松本城の歴史を見て来た大木でしょうね。

帰りに外堀の外から見てみました。

城の設計者によるのでしょうが、それぞれ独特の美しさがありますね。
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- 2013/06/11(火) 08:08:41|
- 長野
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琵琶湖の草津の、当たりから私にとり念願だった中山道歩きも奈良井宿で終わりと思ってます。
ブログ投稿した所、歩いただけの所有りましたが、江戸に進むにしたがい川の渓相も、山道も
厳しくなり、特に鳥居峠を目指す当たりの、細久手、大湫、馬籠、妻籠、奈良井宿当たりでは、歩く交通
手段としては考えられない所でした。
それがあるから、宿場では、馬屋、籠、川渡し、荷物の引き継ぎ等で宿場は栄えたのでしょうね。
次の、宿場までたどり着けない人どうしたんだろう何て、バカな事考えながら歩いてました。
奈良井宿は難所、鳥居峠のふもとにあって、江戸時代には『奈良井千軒』と言われるほど栄えた宿場
だったのですね。戦国時代に武田氏の定めた宿場ですが、集落の成立はさらに古いと考えれてるそうです。
当然、重伝保存地域で、南北1㎞、東西200㍍指定です。南北両端に神社があり、ここも、上町、中町、下町
に分かれ、中山道最大の難所である、鳥居峠をひかえ、宿を取る旅人が多く賑わいを見せたのですね。
西の端から歩きました。宿場を守る様に鎮神社が有りました。上町です。
ここから、さらに西に向かえば難所の鳥居峠(1197㍍)に成るのですね。
真ん中の木は御神木です。

本殿、市有形文化財です。

上町から中町を。

水場です。当時はこれと形は違ったと思いますが、山からの豊富な沢水やわき水を利用して、中山道を
歩く旅人の喉を潤し、鳥居峠に向かったのが想像できますね。

上町に入りました。

神社方面に振り返ったところです。

上町風景です。何とも言えない気持ちで歩いてましたね。

中町に入るところで直角に曲がる。ここでも枡形ですね。

中町です。

上問屋資料館で、明治天皇奈良井宿行在所になった所です。

中町風景です。

中町から下町になりました。

徳利屋で、市有形文化財。

下町に入りました。道が細く成った気がします。
ここで、私は他の宿場と何か違うと思いながら歩いてました。
屋根の、ひさしが大きく出てるのですね。これが宿場のイメージを高めているように思います。

下町です。

創業寛政5年の杉の森蔵元です。

下町をワン子も散歩。

下町の最後の所です。

下町から小道を通り高い所に向かいました。

全景とは成りませんが、奈良井宿です。

帰りに下町最後の水場で、丸刈りの頭に水をたっぷりと。
江戸時代も4カ所ほど有ったそうですよ。顔、頭に水をかけた時、江戸の旅人の気持ちが少し分かった
ような気がしましたね。

毎日中山道のブログに成りましたが、田舎歩きと、中山道は私の夢でした。
老体で完璧な訪問とは、成ってないと思いますが、満足です。
もう少し若ければ、下諏訪、軽井沢ぐらいまでですよね。ここで、ガマンして気温の低下期待して
北上、日本海の方に移動したいと思ってます。
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- 2013/06/10(月) 08:12:41|
- 長野
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木曽郡上松町。寝覚の床を歩いて来ました。床から上流部分は遊歩道が工事中でした。
通行止めで、中途な紹介に成ります。残念。前回の旅ではここを通り過ごしてました。
国道から、少し木曽川沿いに下がった所に駐車場が有り無料です。
木曽川の奇岩とエメラルドグリーンの水面が美しいところでしたよ。
浦島太郎がここで玉手箱を開けて、我にかえったと言う伝説から名付けられた『ねざめの床』は
木曽八景の中でも特に優れた景観として親しまれ、国指定の史跡名勝天然記念物となってるのですね。
小道を川に向かって歩きます。気持ち良い木陰と川からの風を感じます。

岩に仲良く、寄り添う杉です。

この杉は、すっかり岩に腰掛けてますね。

石の彫刻作品が広場に展示、

何をイメージした作品でしょうか。

歩いているうち、木曽川に着きました。

『寝覚の床』は木曽川の激流が花崗岩の岩盤を長年にわたって浸食してできたのですね。
俳人正岡子規が『誠やここは天然の庭園にて、仙人の住処とも覚えて尊し』と感じたそうです。
浦島太郎が岩の上で玉手箱を開け、中から出てきた煙とともに3百歳の老人になった伝説の場所です。
上流に向かい、中心が床岩、左が屏風岩、右が亀岩になります。

少し移動しました。亀岩は分かりずらいですが、床岩と屏風岩は良く分かります。

上流に歩いてきました。

暑い時泳ぐと気持ちよさそうな所ですね。

高い所から見たくなり、遊歩道を移動してきました。
ここで、工事をして居り通行止めでした。最後の写真になります。残念。

残念でしたが、童話の伝説、涼しさ、休息はいただきました。
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- 2013/06/09(日) 07:08:29|
- 長野
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中山道、大桑村に阿寺渓谷の美しさは道の駅で情報を得ていました。歩いてきました。
木曽川の支流、阿寺川の渓谷に広がる、渓流の美しさ、新緑の美しさなど、自然の景観が
見事な所でしたよ。『木曽ヒノキ』は樹齢300年を越える、日本三大美林に数えられているそうです。
妻籠宿、馬籠宿で足の疲労は有りましたが、歩いている内に忘れてましね。
木曽川との合流点に少しの広場が有り、車も置けます。
車で林道を通行出来ますが(途中まで)景観を楽しみたい方は歩きが、おすすめですね。

合流点で木曽川の流れが緩やかな所です。多分飯盛山だと思います。
逆さ、飯盛山です。良いタイミングで訪問しましたね。

先を楽しみにスタートしました。

するとこんな看板が。クマ、マムシ、ハチに注意の知らせ。
車に戻り、鈴を待ちました。

いつも、そうですが新緑と川の音は心地よいものですね。
木曽川は大きな石、と言うより岩が多いですね、台風の大水で移動し丸く成ってくのでしょうか。
渓谷の奥深さを感じます。

木陰でも有り、休憩しながら見とれてましたよ。

溜まりのエメラルドグリーンが、はっきり分かるように成りました。
イワナの住む川である想像をしながら歩いてました。
私は、北海道でヤマメの渓流釣りが好きで川歩きをしてました。本州はアマゴと表現しますね。
道東では良くイワナも釣れますよ。

北海道では、見る事のできない風景ですね。

この頃は全身汗。

道ばたにも、大石が。川に有るのはこれですよ、見て行きなさいと言ってるみたいですね。

大分登って来ましたよ。

森林鉄道跡が有りました、ヒノキ林業も鉄道を使うほど盛んな時期が有ったのですね。
本州を歩いて、思いますね。杉、ヒノキの山の多い事ですね。
外国の木材との価格差と言いますが、何か対策無いのでしょうか。
価格差の問題はすべての、製品の問題ですが。渓谷の紹介の話がずれましたね。

上流目指しました。

想像した通りでした。釣り人発見。フライでした。
しばらく、見てましたが残念ながら魚を見る事が出来ませんでしたね。

川も狭くなり、私の体力も。ここで引き返しました。

最後に阿寺渓谷の花を紹介します。

川幅も少し狭く成り、渓谷も迫ってくる感じに成りましたので2〜3㎞登った所で引き返しました。
戻ってネットで、調べるとまだ、入林可能な所まで3㎞有りました。
残念。でも私の体は限界でしたね。
すばらしい渓谷でした、車で通りかかったらぜひ寄って見て下さいね。
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- 2013/06/08(土) 08:17:28|
- 長野
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中山道、木曽川宿の一つですが、美濃との境にあり、宿場は本当に急な坂道に有りました。
木曽川沿いを、車で走ると当然、山、坂の多い所ですが、昔この街道を歩いた事が想像を出来ない。
そんな街道です。馬籠宿自体が急な山道に沿った宿場ですが、旅人がたどり着いて、一番ほっとした
宿場ではないでしょうか、歩いてそんな感じを受けました。
急な坂道の両側に石を積んで家を立て、宿場の中央には本陣、脇本陣、問屋などがならべられたそんな
宿場の様子が、うかがえました。
宿場の一番高い所に有る、駐車場に車を止める。無料有り難い。
上陣場の高い所から見た、宿場風景です。
最初に見える家から急な坂道街道になりますね。

高札場です。どこの宿場でも見る事ができますね。

道標です。京五十二里半、江戸八十里半と有ります。
私は、沢山の道標を見て来ましたが、必ず、〜里半の半が付く? こんど調べたいと思います。

急な坂道の街道を東から西方面に向かって歩きます。

写真で、旅人の急な坂道の想像つきますでしょうか。

暑さと疲れが出たたころ、水路と花が癒してくれましたよ。

坂の風景が続きますよ。

馬籠脇本陣跡です、一度明治28年の大火で焼失したそうです。
現在資料館と成ってました。

本陣跡です。
現在は藤村記念館で、記念館は江戸時代藤村家の生家で、馬籠本陣、島崎家が立っていた
ゆかりの場所なのですね。

大分下がってきました。

木曽馬籠清水屋です。清水屋は島崎藤村の作品『嵐』に出て来る『森さん』(原一平)の家なのです。

本当に急な坂道です、私がもし来年きたら、歩けないかも、籠を手配ですね。

そんな所に大きな水車が。

水車小屋に入ると、何と水力発電でした。
宿場町に、近代文化の電気。時代の変化を気づかせるアイデアですね。
現在の発電量が出てました。急な坂道だから出来る事ですね。

私は下がりながらの、宿場めぐりでしたが、ようやく西の端に着きました。
逆の歩きの方は大変なところですよ。

やはり、ここでも枡形が有りました。
水車小屋のところの、急な坂道を90度曲げてでます、常に防御の事を考えた宿場作りをしたのですね。

宿場の防火水槽で金魚が泳いでましたよ、火災が無い証拠ですね。

可児市、きりら坂下道の駅に戻る時、涼しさを求め脇道の小高い風の通り良いところを求め
走ってると、落合石畳街道の看板が。歩いてきましたよ。
落合集落近くに約800㍍に渡り保存されてます。すばらしい。

その小高い所は棚田の、水田地帯でした。
通りかかったオジサンの話を聞くことが出来ました。江戸の時代からここで水田を耕作するため
この、高い所まで水を引く、工事に先代からずいぶん苦労が有って、稲穂が稔ように成ったと話して
くれました。

暑い一日でした、道産子だからそう思うのでしょか。
草履で、荷物を持った旅、旅とはいえ現在のように観光ではないでしょうが。
女性、子供、の旅人は居たのだろうかと思う毎日です。特に細久手、大湫、妻籠、馬籠宿。
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- 2013/06/07(金) 08:23:52|
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中山道は、山深い木曽路を通ることから木曽街道とも呼ばれていたのですね。
江戸から数えて四十二番目で、伊那街道とも交叉する重要な宿場だったのです。
妻籠の人達は町並みを守るために、家や土地を売らない、貸さない、壊さないを中心とする
住民憲章をつくり、生活しながら江戸時代の貴重な財産を世に伝えている事を改めて知りました。
妻籠宿の看板が大きく目に入りました。

山間の傾斜地にはこのような、石組の土台から宿場は作られたのですね。

東より西に向かい歩き出しました。早朝でもあり、まだ、観光の人は少ないでしたね。

19世紀初頭の建物とありました。
本州の人には、懐かしい土間風景でしょうね。

のどかな時間です。

妻籠独り占めです。

脇本陣奥谷です。国重要文化財。
木曽檜をふんだんに用いて明治十年に建てられた。明治天皇の御小休所にも成ったそうです。
島崎藤村の初恋の相手『ゆふ』さんの嫁ぎ先でもあります。現在は歴史資料館です。

妻籠宿御本陣です。
左の建物が人馬会所(問屋場)宿場には、公用の旅人に人馬を提供するのが第一の仕事で
人馬会所には、問屋、年寄、帳付、馬指、人足指などの宿役人が勤務していた。
そこの、場所の通路は他より広く、宿場で最も華やかな所だったそうです。
現在だったら、市町村役場前でしょうね。

右の建物は相当古い建物だそうです。

馬屋です。馬2頭ぐらいしか入りませんよね。これで良かったのかな。
現在のハヤー会社かな。

西の出口近くまで歩きました。

のどかな風景ですね。

ここでも、枡形が見られました。街道を2度直角に曲げてます。

有形文化財。下嵯峨屋です。

枡形です。

宿場から離れ、小道の山道を登ってくと『ギンモクセイ』を見る事ができましたよ。
長野県天然記念物で、栽培した巨木で知られるのは全国で6本で、妻籠の木はもっとも東
の木だそうです。根元は径2㍍もあります。

高い所まで登って来ました。妻籠宿を上から見てます。

道ばたの花ですね。

帰り道に、飛脚に逢いましたよ。郵便局も工夫してますね。

妻籠宿は、保存、整備も行き届いてますが、住民の生活基盤である、仕事と上手く合致してるように
見えました。
ただ何処の、宿場もそうですが、街道に車が置いて有るのは工夫が必要に思いますね。
仕事用、個人用で宿場全体で考えてみたらどうでしょうか。写真を撮る時特に感じますね。
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- 2013/06/06(木) 07:16:24|
- 長野
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中山道を中心に移動してきましたが、地図を見ると飛騨金山は近い。
私には、11年前飛騨金山ぬく森の里道の駅で、苦い経験が有り現場検証に。?。
飛騨金山は江戸時代、飛騨川と馬瀬川の合流点が天領、尾張藩、苗木藩、群上藩の境に当たり
宿場町として栄えたそうです。
11年振りの訪問です。
11年前それは、この手押し式信号器から始まりました。

当時はもっと、両側に木が有り大きく枝が出てた、信号機にかぶさるように。
信号機を過ぎ、駐車場に入ると、パトカーが現れる。何処に居たの。
黄色でしたよね。信号無視です。私、無視では有りません、見落としです。
この場所で、キップを頂きました。9000円。ゴールド免許取り上げ。

ゴールド免許再取得しましたが、信号機の隣に交通安全の地蔵さんが、有りました。
やはり、反省ですね。

飛騨金山に来て、『軟骨めぐり』と言う言葉を知りました。
皆さん、知ってましたか。『軟骨』とは、路地裏通りのこと。昔から生活に密着した共同通路で
そこに住む人の重要な生活空間なのですね。
軟骨めぐりを、して来ました。
野球場の土手を利用した、取り組みですね。奇麗に目立ってましたよ。

通りに紅紅葉が、雰囲気を変えてます。

馬瀬川の河岸に下りました。奇麗なな川です。ここは水量も有ります。

イワナが居そうですね。

歩いて行くと、やはり本州の川ですね大きな岩、急流も有ります。
その変化が、疲れ、暑さを忘れさすのですね。

橋が有りました、渡って対岸の急傾斜の集落を歩く事にしました。
こんな場所も、小さな湖です。

本州では、田舎に入ると良く見かける地蔵さんです。
古いのでしょう、顔の表情は分かりませんでしたね。

崖地には石垣ですね。北海道はコンクリートかブロックが多いですよね。

紅紅葉が馬瀬川をここでも引き立ててましたよ。

わき水が豊富な所です、水車の民家が有り、撮らさせて貰いました。

こんな、立派な石垣も。

林から見た馬瀬川です。ここで、しばし休憩でした。
ここで、自伝車を押して来る、オジーサンと小学1年生ぐらいの人と逢う。
子犬見ませんでしたかと。探してるようです。
犬は自分の家を、覚えていて戻るのではと言うと。2月に生まれたばかりだそう。
このお2人には、また、下流の橋を渡り元に戻った時、公園で探す姿を見ました。
子犬に逢えてれば良いのですが。

下流の橋から見た所です。この当たりは岩が多いですね。

11年前の反省をしながら、軟骨めぐりをしてきました。
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- 2013/06/05(水) 07:56:02|
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大湫宿から近く。コミュニテーセンターの方が場所は教えてくれました。
カーナビにセット。走る。急に車1台しか通れないような道を案内始める。
行くしかない、私も知らない道。
突然少し広い所に出た、車が1台有る、白髪、白ひげの仙人風のオジサンが居た。
回りを見ると、住居が何軒か有る。
ここが竜吟峡に行く入り口ですか? そうだけれど止めなさいと。道は悪いし、マムシが出る。
仙人風のオジサンと、2時間程オシャベリをした。これだけで竜吟峡に来た意味が有ったと思いましたよ。
若い頃、あんたと同じで、古い歴史を訪ねるのが好きで、田舎歩きしたそうです。
ブログを、書きながら旅をしてます。オジサン記念に1枚使って良いですか。どうぞ、どうぞで撮らさせもらう。
オジサンの言う説明のとおり、整備された道が有った。
カーナビ何を考えてるのでしょう。
仙人オジサンです。別れる時車が見えなくなるまで、手を振ってくれました。

案内板にサワヤカコースと有ります。
所々に石碑、石像が多い所でした。

オジサンは国道19号から、入るのはドラゴンを目印にしなさいと言った。
登りだすとその、ドラゴンらしきものが有った。
そこを通過した時、恐竜の大声が、飛び上がる。センサーが働くように成ってる。
なぜ、ここでドラゴンなのか、今も分からない。左の丸いのがドラドンです。

気持ち良い道になってきました。

数は少ないですが花を見ることも出来ましたよ。

石像です。古いのでしょうね。顔の表情が分かりません。

第1の滝です。ここ竜吟峡では落差のある滝でしたね。

第2の滝です。
2本の滝に成ってます。ここにはカメラ愛好家でしょうか、4人の方が三脚セットして
チャンスを待ってるのでしょうね。

第3の滝です。

えびす滝です。なぜ、えびす滝なのかしばらく考えました。

あんま滝です。
これは、何となく丸い石があり、肩こりに良いかなと。

昇竜の滝です。竜が登ってるイメージでしょうか。

梵天の滝です。
この、あたりで水を持ってこなかった事を反省してました。
サワヤカコースで、滝が七ツですぐ終わりと思ってました。違いました。軽登山でした。

風の無い日で、水の音と、緑、花が疲れを忘れさせてくれました。

オジサンの手を、振ってる姿が忘れられません。お元気で。
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- 2013/06/03(月) 07:26:30|
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細久手宿を通過、細い山道に入る。車に合う事は少ないが徐行運転が続いた。
やがて大湫宿との、峠の頂上と思われる所に小高い山が、道の両側に二ツ見えました。
それは一里塚でしたよ。まわりは杉林。
1里塚には、榎や松が植えられ松並木も整備されたそうです。ここの1里塚は松でした。
現在はほとんど荒廃してるそうですが、当時のまま残っているのは、全国的にも稀のようです。
今までの、中山道めぐりでも、1里塚の標識は有りましたが本物は、初めて、当時この小高い丘の
杉の木を目指して、峠越えをしたのでしょうね。
小高い山です。中心に有る杉の木が左に見えます。

道の反対側に成ります。

一里塚の石碑が有りました。

峠より大湫宿に向かっていくと、弁財天の池が。

享和2年に、記された紀行に『左の方に小さな池あり、池の中に弁財天の宮あり』との記述があるそうで、
左との表現は、細久手宿から歩いて見た風景を指してるのですね。
ハスとアヤメですね。旅人に休息の場と成ったのは想像がつきますね。

ハスです。

大湫宿の少し手前に広場があり、木陰に成って居りここに車を置き歩こうとしました。
そこは、偶然にも安藤広重が木曽街道六十九次で描いた場所でした。

大洞小坂で広重描くの石碑です。大湫宿は、大久手とも書いたそうですよ。

歩き出しました。地元のオバサンが歩き方を教えてくれました。
分からなく成ったら、どこでも良いから聞きなさいと、親切な言葉。旅人には心強いです。
高札場が目につきました。今までと違う。高札が10枚展示。それには、定と覚がある。
意味分けは、分からない。いろいろお上の決め事が書いてありました。

通りに入りました。

当時のままの、建物です。壁は白壁。

神明神社です。

大木の杉。

かなり歩いて来ました。通りです。

本陣跡です。
大湫宿本陣は間口約40㍍、奥行き約27㍍、部屋数23という広大な建物で大名、高級武士たちの
宿舎でした。

大湫宿最後の場所まで上がって来ました。
これから先は、車では通行出来ず。歩くだけの中山道に成ります。

高い所から見た、大湫宿です。

街道の花が疲れを癒してくれました。

街道は車の交差が大変です。車は少ないですが。

今日は、1日感動でした。細久手から大湫宿が気持ち良かったのも有りますが。
何カ所かの、宿場を見学しましたが、それぞれの姿が有りました。どんな形でも、
江戸から京までの、中山道を感じて貰う取り組みは素晴らしいと思いました。
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- 2013/06/02(日) 07:39:32|
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ブログ書き出し、認識しました。6月何ですね。本州に入り20日が立ちました。
垂井宿は中山道の宿場であると同時に美農路の起点の場所でも有ったのですね。
垂井宿総家数315軒で、商工業者が多く軒を並べてたそうです。
現在は一部に、当時の面影を残してますが、現在の商店街に変わった感じを受けました。
役場に寄り、説明と地図を頂きました。
車ですか、止めるとこが有りませんから、役場の駐車場を使って下さいと。
車旅をしてると、道の狭い本州で一番困る問題です。役場の職員の方。ありがとう。
中山道に出ました。今まで見た、中山道宿場町と雰囲気が違います。

こんな時は、一歩裏道を歩く事が有ります。
商店が有りませんから、収穫もありますよ。

古い建物で母波屋と有りました。

東の方に歩いてると相川が。
相川人足渡跡で、相川は昔から暴れ川で、たびたび洪水があり、そのため、江戸時代初期
には人足渡しによる、渡しが主で有ったようです。
川越人夫は垂井宿の百姓がつとめ、渡川時の水量によって渡賃が決められていたそうです。
体重は関係無いのか心配になりますね。

さらに、東に進むと松林が有る事を役場の職員から聞いてました。
見えてきました。

長年頑張ってきたようですね。

ここの、地蔵さんはどこより大きく、建物も立派ですね。

垂井追分道標があります。
追分は中山道と美濃路の大切な分岐点でした。ここには宝永6年に建てた
『是より右東海道大垣路左木曽街道たにぐみみち』と刻まれ、中山道道標で七番目に古いそうです。

街道の分岐点に当たるところに、お休み処が。
ここで、茶とダンゴで次めざして歩いたのでしょうね。

旅籠屋長浜屋です。これは当時のままだそうですよ。

当時の垂井宿をしのぶ、ただ一軒の宿場風景だそうです。

本龍寺です。
山門や書院の玄関は脇本陣から移築されたものと言われてるそうです。
松尾芭蕉は元禄四年、冬ごもりして『作り木の庭をいさめる時雨かな』などを詠んだそうです。
明治天皇も御小休所されたそうです。
大きく貫禄のある寺でした。

大ケヤキが有り、名水が湧く泉まで歩きました。
涼しさを感じる所でした。

大ケヤキの根元です。全体像をカメラに納めることは出来ません。
名水50選に選ばれてるそうで、大ケヤキの幹まわりは八㍍あるそうです。

今まで見た、宿場とはちょっと違ったイメージでしたが。
それぞれの、地区の条件に合わせ、一生懸命努力されてるのでしょうね。
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- 2013/06/01(土) 08:32:34|
- 岐阜
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