『駅逓所』とは、交通不便の地に駅舎と人馬を備えて、宿泊と運送の便をはかる
ために設置されたもので、規模は違いますが本州の宿場と役目はにてますね。
江戸期からあり歴史は古く開拓期で重要な役割をしました、島松駅逓所は明治6年に
設置され、明治30年に廃止されてます。
北海道には、600ヶ所以上あったそうで、現在ではほとんど残ってませんが6ヶ所
ほどが、昔の姿を残して残存してます。一部を残し訪問してますので後でリンクで紹介します。
その他の駅逓所跡は、石碑で保存の場所もありました。
旧島松駅逓所は残存の中の一つで、経営は中山久蔵氏で北海道における、水稲栽培に
成功し『石狩水田の祖』とも言われてます。
今では品種改良され、冷害と言う言葉も聞かなくなりましたが、私が子供の頃は良く
冷害が有り農家の苦労も多かった時期がありましたね。
そんな、歴史有る島松駅逓所がライトアップして紅葉の季節に無料開放されると聞き
10月23日訪問しました、また、蔵出しブログですね。駅逓所内部も開放。
旧島松駅逓所は北広島市になり、札幌から国道36号線でも近い距離です。
夕方到着、全景です。

国指定史跡、保存管理がしっかりしてます。
ライトアップで昔の風景が浮かびます、気持ち良い。

空にはまだ少し明るさが、駅逓所右通路を行くと裏には
公園があり、記念の石碑が何点かあります。

駅逓所裏山公園入口あたり。

公園石碑、駅逓所跡記念碑。中山久蔵が明治23年建立。

内部も無料開放。

居間、台所風景でしょうか、

中山久蔵氏、44歳で島松に入植駅逓所経営、稲作の栽培に成功と北海道の開拓
に大きく貢献された方と思います。

札幌県、駅逓係からの任命状。
札幌県とは、開拓使が廃止された明治15年から、北海道庁が設置される明治19年
までの4年間、札幌県、函館県、根室県の3県であったそうです。

宿泊用部屋、中に入って見ると広いですよ。

縁側の通路、昔の一般住宅でも大きな家には有りましたね。
懐かしい風景です。

当時の島松駅逓所付近の図、一番上の山側の建物が駅逓所と思います。

昭和26年当時の駅逓所、前の道路は旧国道36号線、現在の国道は
駅逓所裏山の向こう側にりっぱな国道となってます。

中山家使用の井戸、島松に入植以来使用で現在も使用してるそうです。
北広島町内で最も古い井戸。

ゆっくり見学してると外はすっかり暗くなりました。

紅葉もライトアップできれい。

駅逓所横の池です。この水が中山久蔵氏の稲作挑戦の水になったのです。
見えませんが、池の奥に小さな水田が有りました。
池によって、滞留で水温が上がり稲の成長を助けるのですね。昔の農家で良く見ました。
今は必要無く成りましたね。

『寒地稲作この地に始まる』の碑。

駅逓所が北海道開拓に果たした、役割は非常に大きかったと思います。
でも、道産子でも駅逓所の歴史を知ってる方は少ないと思いますね。
私も、数年前です、ある本で知り興味を持ち調べ出しました、そして、見学をしてみた。
駅逓所と駅逓所の位置関係が分かってくると興味がさらに増しましたね。
現存する駅逓所過去にブログ投稿してますので興味の有る方リンクで訪問してください。
(石碑のみの駅逓所は除きます)
1、旧幌向駅逓所 2、旧忠別太駅逓所 3、旧島松駅逓所 4、旧奥行臼駅逓所 5、旧簾舞通行屋 6、本願寺駅逓所 上藻別駅逓所も現存する駅逓所ですが、ここだけはまだ訪問してません。
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- 2016/12/21(水) 21:09:20|
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前回京極町で思いがけない駅逓所に巡り会え紹介しました。
平成25年、26年にわたり道東、道央、空知地方の駅逓所めぐりのミニ車中泊
ぶらり旅をしましたが、それぞれブログで紹介しましたね。
『駅逓所の役割』について簡単に説明したブログがここに有ります。
現存する、駅逓所は現在8ヵ所保存管理されてます。
今回6ヵ所についてまとめましたので、リンクで紹介しますね。
1、 雨竜郡沼田町、
本願寺駅逓所、沼田神社、鐘のなる町秩父別町。
2、 旭川市、
旧忠別太駅逓所〜現存する貴重な歴史遺産〜三大河川の合流地点〜
3、 南幌町、
旧幌向駅逓所、本州各地からの入植の地〜南幌神社〜
4,
旧島松駅逓所は北限の稲作発祥の地〜クラーク博士お別れの地。
5, 札幌市、
簾舞通行屋(みすまい)〜旧黒岩家住宅〜故郷の風景でした。
6, 根釧原野別海町、
旧奥行臼駅逓所〜別海町文化財旧標津線奥行臼駅〜
ブログで紹介した他の駅逓所は、ほとんどが石碑のみでしたね。
他に現存する駅逓所は上藻別駅逓所〜紋別市。ソーケシュオマベツ駅逓所〜喜茂別町(北海道開拓の村
に復元移設)見てますが、ブログを書いて無い時代で写真が有りません。
簾舞だけ通行屋表現ですが、江戸時代は通行屋という制度だったそうです。
又、旧奥行臼駅逓所は昨年から補修工事に入ってると思います、5年ぐらい掛かる話でした。
駅逓所は北海道開拓の歴史と、深い関係が有ります、訪問し立地されてる場所
を見ると良く分かりますね。興味の有る方はドライブの途中寄ってみて下さい。
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- 2015/07/10(金) 07:30:21|
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平成26年初秋 過去ログ
平成26年初秋の頃、道南旅行の帰り初秋とはいえ好天気で暑い日休憩とふきだし公園
の水を求めて立ち寄る。
京極町の『ふきだし公園』は羊蹄山に降った雨や雪が地中にしみ込み地下水となり
長い年月をかけ、湧き水となって、再び山麓周辺の地表に表れた物。
京極町の『ふきだし公園』は多く有る羊蹄山の伏流水の中でも有名で、水温は年を通して
6〜7度C、一日80,000トンの水量、水質と同時に貴重な水資源です。
公園の駐車場から、50~60㍍離れた小さな林に石碑が見える、歴史、史跡、開拓の歴史等
で旅が多く成ってから、石碑を見ると何でも近づく習慣が付いてしまってる。
今回もいつも通り、近づいて見ると何とこの場所に駅逓所跡の石碑だった、私には大発見
平成25年、道東、道央、空知を中心に車中泊をしながら駅逓所めぐりをした経験が有った
からです。
道南地方の駅逓所に付いては、未調査だったのでまさか偶然にこの場所で発見とはラッキー
でした。 これで道南地方の駅逓所調査の機会になるかもしれませんね。
これが、新発見の『下目名駅逓所』跡です。
駅逓所は、本州で言う宿場町に似てます、規模は全然違いますが役目は似た所が有ります。
明治2年、開拓使が設立、開拓に必要な人、物資の移動に必要な内陸道路の開削が必要となり
旧ピッチで進められてます。

開拓を進めるには、休憩、宿泊施設、人馬の引き継ぎ立て場所として必要とされ
出来たのが駅逓所でした。
近づいて見ると、入口への坂道がありこの奥に駅逓所が有った事が想像できます。

明治41年頃になると、全道に官設の駅逓所は211ヵ所になってます。
坂道を上がってくと、整備された庭園があった事が分かりますね。

羊蹄山麓エリアで明治から大正にかけて開設された駅逓所は12ヵ所あり
この下目名駅逓所もその一つでした。
宿泊料は場所により違い、22〜60銭ぐらいだったようです。
函館から札幌までの交通路の開削には、この場所に駅逓所が必要だったのでしょうね。
年中水の確保には心配がいらない場所。
上の平らな場所が駅逓所跡のようです。
かなり広い敷地だったようです。
京極町に近い国道5号から見る羊蹄山です。
羊蹄山は『蝦夷富士』とも言われ、容姿と共にその成り立ちも良く似てるそうです。
誕生は5~6万年前と言われてます。

『ふきだし公園』湧水口に向かう遊歩道。
札幌から大量の入物を用意して来る方も多いですよ、喫茶店の店長さんとか!!

湧水口です。 山麓の所々に有る中では最大です。

駐車場から湧水口までは少し距離があります。
手押し車も用意されてます。 入物の無い人の為販売もしてるようですね。

湧水口を見てると流しソーメンが食べたくなりますね。
下目名駅逓所跡に立ってみて、何でこの場所だったのか少し考えてしまいましたね。
この地方に必要なのは理解できるのですが、場所が地形的に少し不便な場所に見えたからです。
多くの駅逓所跡を見てきましたが、多くは大河川の側、各地からの人の往来に便利な所でしたから!!
この羊蹄の伏流水に負けたのでしょうか。
北海道には現在、8ヵ所の駅逓所跡が現存して守られてます。
後で紹介しますね。
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- 2015/07/05(日) 10:45:05|
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オジサンの車中泊ミニぶらり旅、歴史を訪ねて道央から留萌街道に入る。 過去ログ
北海道に現存する駅逓所9箇所の内、見学は6箇所目になります、沼田町、本願寺駅逓所
を紹介しますね。
明治時代の駅逓所制度に付いて簡単に説明してます
『駅逓所の役割』 クリック
本願寺駅逓所は、沼田町集落から少し離れており、分かりづらい。
調査していた、住所からカーナビ、マップコードでようやく到着、今まで見た中では
外観にも特徴が有り、ぜひ内部見学がしたいが、無人、見学したい場合はここえ電話と有る。
私は、今時珍しい携帯持たない派、田舎です、公衆電話など無い。
向かいに、北竜簡易郵便局が有る、女性の方一人勤務お世話になりました。
書かれた電話番号では、留守で出ない、多分個人に依頼してるのでしょう。
職員の方は、沼田教育委員会に連絡してくれました、すぐ来るとの事皆さんにお世話になりますね。
まもなく、車で沼田教育委員会次長、Sさんが鍵を開放、一緒に案内までして頂きました。
私に取っては、ラッキーな見学になりましたね。
場所はこの辺に成ります。国道275号線沿い。
本願寺駅逓所です。 S次長さんに歴史を聞く事が出来ました。
明治27年に建てられて、明治33年官設の駅逓所と成ってます。
北海道指定有形文化財の指定、2階建で当時この駅逓所の大きな役割は、札幌や旭川と
留萌を結ぶ、旅人の宿と馬を休め、奥地の開拓に当たっている人々に手紙集配だった
そうですよ。 雨竜川が近いので、船運も有ったかも知れません。

玄関です、玄関の屋根に今まで見た事の無い特徴を感じましたね。

2階です、 切妻屋根で、白漆喰塗りの壁、堅繁格子、一階全面には『セガイ造り』
2階正面に『たてしげ格子の出窓』など旧態をとどめた数少ない遺構で、貴重な物ですね。

裏庭から。 昔の日本家屋には何処となく貫禄を感じますね。

中庭です。

玄関のひさし。 設計者は本州の方だったのでしょう。

建物には、昔懐かしい物ばかりが展示。

ランプも有りますね、子供の頃ランプのガラス部分の掃除は私の担当でした。
手が小さいので、中まで手が入る、スス掃除ですね。

台所、客室、廊下方面。

台所です、広いですね。 利用客多かったのでしょうか。
奥の床の物は、水ガメかな。

客室です。

客室、広いですね。

2階階段です、大きな駅逓所です。

頑丈な作りの手すり。 現在の新築住宅ではこんな景色はもう有りませんね。

2階の床の間、取り扱い人夫婦の写真が残されてましたよ。

教育委員会のSさんと、郵便局の職員の親切で、ゆっくり見学出来ました。無料。
昼食の時間に成り、何時ものオニギリ、タイム。 暑い日で日陰が無い。
1〜2㎞先を見ると、林が見える。
そこは、偶然にも北竜小学校の廃校跡でした、北海道の田舎を歩いてると、実に多い。
廃校、廃坑、廃耕、離農、廃屋、感じますね。道産子として寂しい、これも時代の流れでしょうが
その中でも、それを旨く逆手に取って盛り上げてる行政も有る。
北竜小学校廃校跡です。

この場所は、この地方の教育発祥の地だそうです。

二宮金次郎の銅像は残されてましたよ。

グランド、バックネットです。 長年多くの子供達が楽しんだのでしょうね。

せっかくですから、沼田神社参拝。
沼田の町名の由来は、開拓の功労者沼田喜三郎の姓だそうです。
北海道の開拓では、何処の地区の開拓でも中心となる人物が居ますね。

本殿と御神木です。

町単位で神楽殿は珍しいですね。

深川市から留萌、増毛方面の留萌線。 石狩沼田駅。

車中泊場所『鐘のなるまち、ちっぷべつ』到着。
鐘の塔です、道の駅駐車場の真ん中に有り、朝、夕6時大音響の鐘が成りますよ。
開拓時代にこの鐘で、朝、夕を知らせたのが伝統として残ってる。

場所です。
秩父別町メインストリートには、鐘のなるまちのアーチが。
この地方の開拓は、明治28~29年に屯田兵の入植で開拓が始まってます。
北海道開拓と屯田兵の関係は、どの地区でも出て来ますね。

道の駅近くを、散歩してると開基百年記念、百禄園です。 平成3年建立。

オンコ(イチイ)と石、水を旨く使った公園でした。
手入れは完璧。

本願寺駅逓所の名称ですが、開拓時代の市街地名は雨竜郡北竜字沼田仁多志別でしたが
本願寺農場用地に有ったので、『本願寺駅逓所』と呼ばれるようになったそうです。
秩父別道の駅の朝6時、巨大な鐘の音で起こされましたよ。
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- 2014/09/30(火) 12:08:04|
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深川市は旭川市から札幌市に向かい、神居古潭を過ぎたら直ぐの市です。
音江法華駅逓所は、深川市街から離れた少し高台に有りました。
そこは、明治時代樺戸囚人が開削した道路で、当時上川道路と呼ばれてた。
現在は、別の場所に国道12号がメインコース。
明治時代の駅逓所制度に付いて簡単にここで説明してます。
『駅逓所の役割』クリック
駅逓所跡を予想して到着した所は、深川市水稲発祥の地、旧鷲田農業事務所跡で有り、自分には
予想外の所に案内してくれた、カーナビに感謝ですね。
拡大して見ます。
中央保育園前の川が音江川、その向かい側が深川市水稲発祥の地、
『旧鷲田農場事務所跡』でした。
『旧鷲田農場事務所跡』を見学。無人の歴史的建造物。

この場所で深川市の水稲が始まったのです。
明治22年に音江に移住してきた高橋惣吉が、自宅近くで試作明治25年本格的に耕作
明治30年代には深川各地で行われたそうです。

『旧鷲田農場事務所跡』 駅逓所を訪ねてこんな歴史に逢うとは、思いませんでした。
事務所横から、明治末期に建立、和洋の特徴が有る。
二階は伝統的な和室のようです。

深川市指定有形文化財です。

鷲田軍蔵氏が明治25年開墾を始め農場を経営、明治34年には音江郵便局長となる。
昭和5年には、音江村役場庁舎となり、その後深川市に合併したのですね。
事務所裏には、子供時代に良く見た北海道の風景、馬車が有りました。
冬は、馬ソリに変わります。

裏庭は、開拓時代を思わせる林でした。

前庭は整備された庭園風景。

外観は完全に洋風、農業関係の事務所跡とは想像出来ませんね。
それも、明治の時代ですからね。

深川市の水稲耕作の歴史には、高橋惣吉氏、鷲田軍蔵氏が大きく貢献してる事が分かりました。
農場事務所近くを散歩してると、隣りに最近更地にしたと思われる土地が有りました。
伐採された、木株を見ると大木、この地には多くの歴史が有りそう、そんな感じがしました。

音江法華駅逓所を、訪ねてきたのでしたね。
向かいの保育園が、散歩に出る所でした、聞いて見ると『あそこ』ですと見える位置
音江保育園前の音江川です。ここの駅逓所は船運が大きな目的では無さそうですね。
石狩川までは、距離が有ります。

やっとたどり着いた、音江駅逓所跡です。

そこは、小さな集落の中に有りました。昔はこの前が上川道路。
宿泊と運送の便が主だったようです。
ある日の夕食紹介しますね。 宿泊料30銭、 夕食、クジラ、豆腐、セリの煮物、
ミガキニシンの煮付け、シイタケの汁物に漬け物。 十分な夕食風景ですよね。
説明板だけの史跡です。

近くの民家の庭には、ヒメリンゴ?

深川市に寄り、深川神社参拝してきました。

境内に有った、深川神社三代目宮司、浦武四郎先生顕彰碑です。
浦家は、奈良県十津川村からの移住した代々社家で、この地の開拓に貢献、教育と
文武両道で活躍された方のようです。
十津川物語を読んで見ると、十津川に移住はしたけれどその過酷な開拓生活に
疲れ、深川、旭川に再移住した方もいたそうです。

音江駅逓所の訪問が、カーナビの思いやり案内『?』で深川市水稲耕作の
歴史を知る事が出来ましたね。音江保育園の先生にもお世話になりました。
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- 2014/09/27(土) 11:02:03|
- 駅逓所
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明治時代の北海道駅逓所制度について、説明用意
『駅逓所の役割』 クリック
旧忠別太駅逓所は、札幌から進み旭川市に入る手前、旭川大橋の近くでした。
そこは、上川盆地にとって三大河川の石狩川、忠別川、美瑛川の合流地点でしたよ。
北海道開発そして、駅逓所の場所と河川との重要な関係がここ忠別太駅逓所でも再確認しました。
上川道路(当時は囚人道路とも表現)の工事が進むにしたがい、開拓の進捗には道路沿いの
忠別太(現旭川市)音江法華(現深川市)空知太(現滝川市)奈井江(現奈井江町)
岩見沢(現岩見沢市)の5ヵ所に駅逓所の設置形画進行が開拓の進行を早めたのですね。
旧忠別太駅逓所は、上川農作試験所の官舎だったそうで、明治19年建立されてます。
忠別川側に看板が有りました。

場所です。
敷地内に説明板が。
明治20年、上川道路(札幌〜旭川間)の作業に当たっていた樺戸監獄署の忠別出張事務所
と成ったのです。

明治22年官設駅逓所として、正式に忠別太駅逓所として開駅されました。
通路から駅逓所全体です。

裏側です。

裏側には、勝手口が有りました。

駅逓所通路反対側。

入口階段です。

玄関を入った所です、思いのほか小さい玄関でした。

平面図が有りました。

事務所です。
農作試験所が前身、ここには測候所、忠別電話局も有り最先端拠点として上川開発には
重要な役割を持ったいたようです。

玄関を入って奥に居間が有ります、狭い部屋でした。

勝手口ですが、ピンボケ(何時もの事技術不足)

風呂です、懐かしい私も子供の頃、五右衛門風呂でした。

真ん中の敷板に上手に乗って沈めていかないと、沈没。
私も明治時代の人間か?? 田舎育ちと言う事にしときましょう。

台所に釜戸が二つ。

井戸です、建物内の井戸明治時代としては珍しいのでは。

客室です。広い部屋でした。

こちらも、客室です。泊まりが多い時は相部屋だったのでしょうね。

風呂から客室に行く廊下。

壁です。 何処の部分もそうですが歴史を刻んだ建物です。

庭には指定保存樹。
鉄道の開通で明治36年廃駅となってます。

歴史を感じる太いサルナシ(コクワ)が頂上まで巻きついてましたよ。

コクワの実がついてました、最近何処の山に入っても山ぶどう、コクワを
見る事が少なくなりましたよ。
コクワ食べ過ぎると、オシリがかゆく成りましたね(笑)

明治時代の駅逓所の写真が有りました。
昭和41年旭川市最古の建造物となり、旭川市指定文化財。

明治23年の旭川、神居、永山の開村、明治24年より屯田兵の入植などによる
人や物資の流通に大きな役割を果たしたそうです。
囚徒は別に獄舎を近くの地に建設されてたそうです。(工事の為の囚徒)

現在の生活は、明治時代の屯田兵、一般人の本州からの移住、囚徒の開拓の苦労の
歴史が有る事を再確認しましたね。
忠別太駅逓所は北海道に現存する5ヵ所の駅逓所の一つです。
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- 2014/09/18(木) 11:37:40|
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北海道駅逓所制度、始めて聞く方ここに、説明ブログ用意
『駅逓所の役割』クリック。
空知太駅逓所跡は石碑なのは、知ってましたが行き着くのに苦労しましたね。
今までの駅逓所、ほとんどが川に関係してる、今回も空知川を参考に探索。
そこは、空知大橋を渡り国道12号線に近い、中小の会社、住宅街の一角でした。
明治22年頃江別から現旭川まで、5箇所の駅逓所が作られましたが、その一つでした。
第三美瑛舎とも言われてたそうです。
国道12号線沿いの会社裏にひっそりと、立ってる石碑、明治時代は大切な場所でしたが。

奥の緑が空知川の堤防です、 船運の利用の多い駅逓所が想像できます。
この直ぐ下流が石狩川です。

石碑は昭和48年建立と有ります、開駅が明治22年。 廃止が明治39年
初代取扱人、 高畠利宣。
昭和48年古い駅逓所を廃棄して石碑にしたのでしょうか?

角度を変えて、わずかに空知太の文字が。
北海道一の大河石狩川と空知川が合流する空知平野の中央部で、開拓には重要な場所
だった事が想像できますね。
石狩川を渡れば、増毛街道(現国道275号線)との連絡も容易でした。

場所です。
滝川神社参拝。

十津川村移住者の影響でしょうか、ここの手水舎も竜の彫物でした。

狛犬も立派、大きな神社です。
明治23年7月屯田兵移住で、神霊拝所を建設、滝川神社の前身となったようです。

本殿。 明治28年本殿を建立滝川神社となる。
その後、何度かの造営、本殿改築の歴史が有るそうです。

神社には珍しい、魚菜供養之碑。 包丁塚石碑です。

滝川屯田兵移住記念碑。
明治22~23年に移住、士族屯田兵の最後だそうです。
山形県と奈良県の十津川移民の人達で、屯田兵が入植した頃は中空知の中心地として
北海道開拓の拠点地だった時代が有りました。
明治31年鉄道が忠別太(現旭川)まで延伸された頃から開発の中心は旭川に移ったそうです。
明治31年大洪水で大きな被害が出たことも大きく影響した歴史が有ります。

滝川道の駅に寄りましたよ。

あまり大きな道の駅では有りませんが、地元野菜が有ります。
12号線沿いですから、駐車場は広い、遠距離トラックの休憩場所にも成ってますね。
車中泊の方は、駐車場所を考えましょう。

ここに寄るとソフトと決まってます。昔は道の駅田園の里うりゅうのソフト
でしたが、味は滝川ですね。 最近は三笠道の駅が上位かな、(個人的の評価)

北海道開拓は、大河と出来るだけ平らな平野が条件。
そんな所に駅逓所ができる。
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- 2014/09/15(月) 07:30:31|
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明治時代の北海道開拓に重要な役目を果たした駅逓所を時々紹介してますね。
始めて聞く方は、駅逓所の役目に疑問が有ると思います。
『駅逓所の役割』 明治、大正の北海道開拓の時代、北海道に来る人、旅の人に宿泊所として、又、人や
馬を貸し出し次の駅逓所まで、または目的地までの便宜を図ってた。
勿論有料です、 蝦夷と言われてた江戸の時代には通行屋の制度も有った。
札幌市の定山渓方面の簾舞に、一箇所だけ保存見る事が出来ます。
全道に現在、駅逓所として保存、管理されてる駅逓所は5箇所有りますよ。
後は、石碑、説明板ですね。
運営は反官、半民の請負制で誰でも出来る制度では無かったようです。
最大多い時で全道に、517駅(千島41含む)有り開拓に大きな役割を果たした制度です。
昭和21年、各地の道路、鉄道の拡充で制度は廃止に成る。
新十津川町、苦難の開拓歴史歩きました。(前回ブログ)
新十津川町から、国道451号線を日本海に向かい、約20㎞の地点に吉野地区が有ります。
そこに、西徳富駅逓所跡が有り行ってきました。
この地区には他に南幌加駅逓所、幌加徳富駅逓所が歴史の中では有るのですが、行きつけ
ませんでした。
西徳富駅逓所は、吉野小学校近くの情報で分かり易い。
『新十津川で心呼吸』の看板で直ぐ発見。 町章は奈良県十津川村と同じだそうです。

吉野小学校校門そばに、西徳富駅逓所の碑。
近くには小さな集落、山に囲まれた田園地帯ここの駅逓所の役目は何だったのでしょう。
近くに、石狩川に合流する徳富川、日本海浜益地区との交流の為?

この地区の開拓に功績の有った、西徳富土功組合創立記念碑。

旧吉野小学校です。
明治38年開校103年の歴史に幕を下し閉校、現在は『かぜのび』として、アートの森彫刻
体験交流促進施設として、町民の憩いの場として活用してるそうです。
かぜの中の、のびやかな時間。 農道を抜けて、あの高台の『かぜのび』へ行こう
が主旨だそうです。
私も子供時代、稲作農家で育ちましたが、農繁期は早朝から暗くなるまで、体を酷使
してるのが農民でした。
この吉野小学校跡の活用を見て、嬉しくなりました。

グランドまで、入らせて貰いました。
中央にモニュメントが有る。
最初の石碑には。『新十津川小学校よ永遠に』
清き流れの 十津川に よしの桜の 生うけて
教えの庭に おいたちし やまとなでしこ 美しや
朝にのぞむ ピンネシリ 高き姿をあおぐべし
夕辺に 澄める徳富川 清き心をうつすなり

校庭の石碑の先に積まれた石は、歴史の数だけ積まれてるそうです。
私はこの前に立った時、この先々頑張って乗り越えて行こう、の意味に見てしまいましたね。

校門前には、小さな池が。

ソバ畑が有りました、本場は幌加内ですもね。

実りの時期のようです。(左) 吉野小学校校庭の花 (右)

西徳富駅逓所場所です。
吉野地区より、左側浜益方面に向かう幌加地区に後2箇所あります。
この地区に3箇所の駅逓所の設置の意味は分かりません。
日本海側との交流、徳富川を利用した農産物、木材の船運だったのでしょうか?
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- 2014/09/12(金) 11:07:59|
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札幌近郊、特に石狩川の旭川に向かい右側、千歳川近郊の明治時代の歴史
を訪ね、紹介して来ました。
それは、石狩川左側(275号線方面)日本海方面に向けての古い歴史遺産は
無いと自分では思ってました。
調べて見ると、北海道の開拓の歴史は明治と共に全道的な活動だったのですね。
『オジサンの車中泊ぶらり旅』ミニ出発する事にしました。
ブログは都合により、過去ログに成ります。了解下さい。
故郷旭川方面、沼田、増毛方面の歴史散歩して来ますね。
今日は、樺戸郡樺戸駅逓所跡を紹介しますね。
浦臼町、275号線沿い、札幌から見ると石狩川の左側初の駅逓所に成ります。
この辺りの開拓は、現在の12号線側が中心だったようで、鉄道の開通もこちら側
が中心でした。。12号線は昔は囚人道路と言われてたそうです、厳しい工事は主に
囚人が関係したからですね。北海道の開拓の歴史にはそんな所が多いです、トンネル
鉄道、ダム工事ですね。
樺戸駅逓所跡の情報は、つるぬま道の駅を新十津川に向かい2~3㎞先でした、小さな商店が
有る所、何度探しても分からない。
最後の手段、つるぬま道の駅へ、知りませんの一言、地元の宣伝の意識がまったく感じられない
ただ、商品を売る店屋の感じをしました(申しわけありません)
浦臼歴史資料館で、情報を得る事が出来るかも知れません、向かいました。
行いが悪いのでしょうか、休館日。 奥に見えるのが資料館です。

広い敷地に大きな蒸気機関車の動輪が。
この動輪は、開通当初の動輪を国鉄から寄贈されたものです。

説明板が有りました、浦臼への入植は、明治24年だそうですが、この切っ掛けが
小樽、砂川間に鉄道の開通によるところが大きいそうです。
開拓が進むにつれ、農産物の輸送が石狩川の船運や、渡し船で鉄道利用と大変不便に成って行く。
石狩川の反対側の集落、現在の当別、月形、浦臼、新十津川、沼田等の住民が鉄路施設に努力を
そそいだそうです。
念願かない、大正元年から工事に入り昭和10年現在の桑園から石狩沼田間の総延長111,4㎞
が全通したそうです。
札幌〜旭川線に遅れる事45年も有ったのです、感動でしたでしょうね。
私も現役時代、学園都市線として毎日利用させて貰いましたが、こんな長い苦労の歴史等
知らずに乗ってましたよ。

資料館休館でしたが、ここの鉄路開通の歴史を知る事ができましたね。
樺戸川駅逓所の、情報を得るには後役場しか有りません。
(何人かの町民の方に聞いて見ましたが分かりません)

3人の職員の方が、詳しい地図を見て調べてくれました。
役場には、我々の知らないすごく、詳しい地図を持ってる事を知りました。
そんな時、奥のデスクから若い職員が知ってますよの声。
商店の横ですよねの言葉に、その方はもう閉店してますの言葉、見つけられない
原因を知る。 皆さん親切な対応有り難う御座いました。お陰で諦めずにすみました。
ようやく、発見です。到着です。
雑草の中、これでは分かりづらい。

樺戸駅逓所跡の石碑、 近くを手で草刈り(笑)
今までの駅逓所は、そこに有る意義の想像は出来たのですが樺戸川駅逓所がここに開設
した理由が分かりづらい、石狩川から離れて居り、洪水をさける位置からか?
開駅明治24年 廃止大正元年。

『稜位』の石碑が並んでる。
『浦臼先住者 青木六蔵氏贈之』と刻まれてる。
青木氏は初代の取扱人で、青木氏に贈られたものか、青木六蔵氏が先住民族に敬意を
示したものか不明のようです。この地にアイヌの方々が住んでた歴史は有るようですよ。

駅逓所探しで混乱した、閉店した商店は直ぐ隣りでした。
開店中は、駅逓所跡地の手入れをしてたのでしょうね。
今度ここを、通る時は草刈りカマを持っていきます。

つるぬま道の駅に近い浦臼神社を参拝させて貰いました。

大鳥居、浦臼神社は明治43年落成、当時は無社格。
大正6年本殿新築、村社となってます。

参道には昔住民が苦労して、開設した線路が。

線路を渡ると、急な階段の参道が待ってました、高齢者にはきつい。

到着です。

本殿参拝。

帰りもつらい、私は昔右足首を怪我してから登りより、下りが苦手。

参道を下り、国道275号線に出ると前につるぬま公園が有ります。

キャンプも出来るようですよ。

ボート遊びも。

浦臼町職員のお世話に成り、諦めずにこの地にも駅逓所開設の歴史が、有った
事が確認出来ました。有り難うございました。
この後、新十津川町に向かい奈良県十津川村からの移住歴史を少しでも感じて
見たいと思います。
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- 2014/09/06(土) 11:54:44|
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江別、岩見沢、南幌(幌向)各駅逓所の歴史紹介してきました。
調べて見ると、近くの奈井江町にも駅逓所が有った記録が有り向かった
過去ログに成ります。
明治23年に、当時の砂川村より奈井江が分村、上川道路(現在の国道12号線)
の開通に合わせ、奈井江駅逓所が許可されたのが、明治22年だそうです。
廃止は明治44年。 WiKipedia
奈井江は空知地方の中部に位置し、石炭産業時代に栄えた町でしたが、現在は農業中心
工業の誘致に力を入れてるそうです。 人口6300人。
駅逓所記念碑の場所は、国道12号に面してます。(でも分かりづらい)
道中、三笠道の駅で休憩タイム、向かいには温泉設備も有りますが、高い。
ここの、アイスクリームはお勧め。

パークゴルフ場も有り、休憩には退屈しませんよ。
大きな水車小屋、昔は小さな水車を動力にした農家も有りました。

奈井江町に着きました、奈井江町開拓記念碑です。
昭和49年開基85周年を記念して建立。
説明板に駅逓所設置が書かれてました。開拓者の苦労に感謝をし駅逓所跡に記念碑
を建てたそうです。

説明板です。

奈井江町発祥の地、官設駅逓所跡と有る。
駅逓所を訪ねて歩いて気づく事は、ここ空知地方は川沿いに近い事ですね。
石狩川を中心に、鮭魚、舟を利用した交通の便利を考えたのでしょうか。
奈井江駅逓所も、奈井江川に近い所でした。 でも昔は洪水のリスクも有った
のでしょうね。 それを克服しながら北海道の開拓が進んだ。

歩道のマンホールです。 石狩川とサケのイメージなのでしょうね。

近くに奈井江神社が、参拝して来ました。
その地方の、神社、仏閣を見るとその地方の歴史を感じる事が有りますね。
大鳥居です。

二つ目の鳥居、大きな神社です。

狛犬に見られながら参拝。

何気なく眺めてましたが、この地方でこの、しめ縄は立派です。
田舎ではあまり見かけませんね。

広い鎮守の森と緑。

忠魂碑。

この神社にも、すもう道場が有りました。
今でも、祭りで子供相撲有るのかな、残ってると良いですね。

神社を参拝して、炭坑で栄えた時代を感じましたよ。
地図にも出てますが、ここの国道12号は日本一長い直線道路で29,2㎞有るそうです。
その中間地点が『ハウスヤルビ奈井江』
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- 2014/08/25(月) 10:54:59|
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札幌市近郊の歴史を、訪ね歩いてます。 江別、南幌町の駅逓所はブログ
に書きましたね。 今日は岩見沢市の歴史です。
岩見沢市は札幌から東に約50㎞の地点です、旧国鉄時代は北海道の拠点基地、夏は
ばんば競技場のイメージが強かった街ですね。
岩見沢発祥の地は、幾春別川のほとりで、舟の渡し船の営みが定住第1号と言われてるそうです。
幾春別川は、当然石狩川に連絡してます、貴重な基地だったことが想像出来ますね。
そこから、集落が大きく成る、そんな感じでしょうか、近くを歩いて見てそんな気がしました。
岩見沢市発祥の地碑

発祥記念碑。 旅人保護のためこの地に官設休泊所(駅逓所と同じ設備)
が設置されてる。 明治11年。

明治11年8月開拓使によって設置。

開拓50周年記念碑。 昭和9年建立。

山口県柳井市平群出身士族移住記念碑。
明治16年27戸、110名。後に鳥取県士族含め総数277戸
札幌近郊の集落の歴史は、札幌市内琴似屯田兵と、同時期くらいに入植してますが
岩見沢くらいまで、離れると約10年くらい遅れてますね。

岩見沢市発祥の地由来の碑が有りましたよ。

発祥の地に隣接して整備された庭園が有りました。
岩見沢市指定文化財の、国兼家住宅でした。

棟かざりでしょうか。
大正2年建築、裏日本の雪国地帯に多く見られた上流家庭の住宅様式だそうです。

良く保存管理されてますね。

縁側です、窓ガラスに特徴が有ります、平面では無く少し湾曲が有ります。
当時の技術としては、これが限界だったのでしょうね。
当時としては、高級品だったそうですよ、別海町、旧奥行臼駅逓所で説明受けました。

部屋の様子です。

北海道では非常に珍しいと言う、土縁付縁側回りです、ガラス越しですが
良く撮れましたね。

庭園から、庭園は良く整備されております。

いろんな花が見られましたよ。

庭園から住宅方面。

住宅が引き立つよう、工夫されてるように感じました。

庭園風景、

庭園、 ここでしばらく休憩させて貰いました。

庭園風景。

庭園の出口に成ります。

明治初期、各県から各地に、開拓の入植があり、原生林と厳寒の地、又、熊も
多かったでしょうね。
現在、何世代目かの我々が、文化的な生活ができる、先人に感謝ですね。
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- 2014/08/22(金) 11:18:39|
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南幌町にも資料により駅逓所が有った事を知り見学することにしました。
江別市、対雁駅逓所から近い距離、隣町です。
対雁駅逓所は石狩川に沿った、道央に関係した駅逓所、南幌、幌向駅逓所は
夕張方面と関係した、駅逓所だったように想像されます。
開駅は明治45年と成ってますが、実際には明治42年から開駅されてた資料が有ります。
私設駅逓所の時代が有ったのでしょうか?
幌向駅逓所名ですが、現在は南幌町ですね。 幌向と言う地名が他にも有ったため昭和
38年南幌町に町名変更したそうです。
幌向駅逓所跡です。

南幌町の現在は、平坦の土地に水田農家の多い所です。
河川が多く、昔は水害の常襲地帯だったようです、この駅逓所も内部の床が高く作られ
てるのが特徴だそうです。 内部見学は出来ません。

説明板です。

閉鎖は昭和6年、夕張鉄道開通が切っ掛けだそうです。 対雁駅逓所閉鎖と似てますね。
多い年で、年間550人の宿泊者が利用、官庁の役人や行商人が主だったようです。
私が子供時代、田舎では大きな荷物を背負った行商人が良く来てました。
文化庁登録有形文化財です。

宿泊料は1泊1円20銭〜2円。 江別〜幌向間の馬車賃は片道50銭
当時の開拓の風景、生活の風景が目に浮かびますね。

裏庭見させて貰いました。

駅逓所から歩いて行けるところに、南幌神社が有りました。
大きな、広い神社でした、 正面から。

神社に付き物の相撲道場です。 こんな立派な道場初めて見ました。

南幌の歴史は(昔は幌向でしたね) 明治27年宮城県角田、明治29年新潟県弥彦村
明治29年三重県津市、明治33年岐阜県からと、多くの県から開拓入植が有ったようです。
歴史を感じる、燈籠の有る長い参道ですね。

古い石碑が多く有りました、風化で字の読めない物も。

石碑。 石碑を眺めてると先人の苦難が見えて来るようです。

石碑。

拝殿、参拝。
入植した開拓団の守護として各開拓地に創建された祠を、開拓が進む当時の幌向村の守護
である鎮守として合祀し幌向神社と成った歴史があるそうです。
大正9年現在地に村社となり、昭和38年町名変更で南幌神社に変更されてます。
北海道各地、本州から比べると比較にならない歴史の差が有りますが、各市町村
それぞれ、大切に引きついで行かなければ成らない物がありますね。

江別、南幌の歴史を歩いて見て、もう少し北海道中心、旭川方面に向かって
歴史を歩いて見たい気持ちになりましたね。
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- 2014/08/09(土) 13:03:15|
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札幌市の歴史を、考える時明治初期の屯田兵を、直ぐ思い起こします。
琴似屯田兵、新琴似屯田兵、八軒、二十四軒等の地名は今も残り地名として
使われてますよ。 最初に入植したのが、八軒、二十四軒から開拓が始まったのが
地名として残ったそうです。
最近、市内の公園、神社等散歩して再確認した事が有りました。
屯田兵以外にも、市内各地に本州から入植が有り、開拓の鍬がスタートしてた
事を知りました。
札幌市郊外の開拓歴史に急に興味が湧いて来ました。
資料と、江別郷土資料館に電話でお世話に成りましたが、旭川市の道央に向かい
駅逓所が、有ったり集落発祥の地が有る事を知りました。
『北海道の駅逓所』について簡単に。
明治初期には、北海道に駅逓所は126箇所設置されたそうです、江戸時代直後ですから
早い行動ですね。 主な業務は宿泊、人馬継立、郵便だったそうで、本州の街道宿場と
似てますね。 取扱人には月額10円の手当金だったそうです(高いのか、安いのか?)
駅逓所は、昭和23年に廃止に成ってます。
今回、江別駅逓所跡を訪問する事に、札幌から約25㎞の距離の集落、札幌との歴史の差に
興味を持って訪問。
駅逓所は、江別市の郊外に有り、小さな森と雑草の多い所だった。
行き着くまで、何人かの人にお世話に成りました、それだけ分かりずらい所。
この当たりでしょうか。
そこは、榎本公園の中でした。

榎本武揚顕彰碑が立ってました。
榎本は北海道開拓に貢献の多かった方ですね、明治政府の要職を歴任し、北海道開拓の
雄志を託し、この地に農場を開いたゆかりの地で、江別市発祥の地でもあるのですね。

歴史の碑文です。

そこは、小さな森の中、駅逓所跡でも有ります。
江別資料館によると、『対雁駅逓所』と書きアイヌ語で『ツ イシカリ』と呼ぶそうです。
『津石狩』とも書くそうです。
対雁は今でも地名として使われてますよ。

今の市中心部からは、離れて居ります。
明治4年宮城県から、農民21戸、76人が移住、対雁村が出来たそうです。
驚きですね、札幌市内の開拓の歴史と変わらない、明治政府に成って間もなく全道各地に
開拓の鍬が入ったのでしょうか。

説明板が有りました。
明治9年には、南カラフト、アイヌ127戸、854人もこの対雁地区に移住した
歴史も有るようですね。

対雁百年碑です。
駅逓所は、明治12年、13年に対雁、江別両村役場が置かれた。 ここが、江別の中心地
だったのです。

明治15年に現在の地に、鉄道開業により人の流れが江別、野幌に移り主な輸送手段が舟から
鉄道に変わったのですね。衰退の道、18年に駅逓所廃止となり、19年には役場、郵便局も
江別村に移転したそうです。

御大典記念の石碑。

駅逓所と同時に、対雁番屋の名所も残ってるので、近くの石狩川の鮭魚、又、内陸への
重要な舟交通の拠点でも有ったのではないでしょうか。
榎本公園裏には、小さな細長い池が有りました、昔石狩川と関係してた小川のような
気がしました。 船着き場が有ったかも。
そこで見た、赤い木の実。

美味しそうですが、ダメでしょうね。

北海道駅逓所では何度かブログで紹介しましたね。
1. 別海町、
旧奥行臼駅逓所。 2013,9,30
2. 札幌市、
簾舞通行屋 2013,11,9
3, 北広島市、
旧島松駅逓所 2013,11,25
江別資料館で得た、資料等で少し札幌を離れて開拓の歴史を歩いてみたいと
思います。
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- 2014/08/03(日) 11:48:17|
- 駅逓所
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晩秋の旧道庁前公園を歩いた時、資料館に寄り新発見が有りました。
本州の宿場町に相当する、仕組みが北海道にも有り、
旧奥行臼駅逓所と、
簾舞通行屋を見学しました。
資料によると、北海道には10ヵ所残されて居り、建物も保存されてるのは6ヵ所有る事が分かりました。
歴史を大切にしてる市町村が有りましたね。近くでは旧島松駅逓所が有りました。
札幌と千歳のほぼ中間地点です、札幌から千歳、苫小牧、函館方面の移動には必要な場所だったのでしょうね。
北広島市役所に電話すると、閉館したが外部は見学出来るそうで行ってきましたよ。
国道36号線で千歳方面に向かい、島松集落に有りましたが交通量の多い国道で看板が有りますが
見落としやすいです、国道から沢に入ります。
島松駅逓所の石碑が立ってます。

島松駅逓所は明治6年札幌本道(現在の国道36号線)の開通に伴い設置されたそうです。
回りは小高い丘に囲まれた、小さな盆地のような所でした。

駅逓所前の小道には大きな記念碑が。

旧島松駅逓所全景です。残念ながら閉館で内部を見学出来ませんが保存状態は非常に良いです。
現在の国道36号が出来る前までは、この駅逓所前は今では考えられない交通量だったそうです。

説明板が有りました、拡大しましたから読めると良いですが。

裏は公園のように整備されており、古い記念の碑が。

明治14年には明治天皇本道の巡幸の際の行在所ともなり、昭和59年国史跡に指定されてます。

裏の公園から見た駅逓所です、当時の駅逓所の建築物としては道内最古だそうです。

井戸です。

御前水の碑。

池から。建物右側に碑などが立つ公園に成ってます。

裏庭。

この駅逓所は中山久蔵が3代目取り扱い人となり、それ以降廃止されるまで一族に寄って業務が行われ
たそうです。
中山久蔵は北広島が原野だった頃、島松沢に入植し当時は米作りが不可能とされた米作りにチャレンジ
し、明治6年の秋には反当たり345㎏の米を収穫し『赤毛種』と呼ばれる寒冷地用の種もみを開拓農民に
無償で配布したそうです。当時は温暖な道南でわずかに米作りが有っただけだそうです。
北限の米作りの恩人中山久蔵記念の碑です。 『寒地稲作この地に始まる』

稲作研究の地が保存されてました、これは水温を上げるため水田に入る前に水路を流したと想像します。
私も子供の頃一枚目の田は水温が低くほとんど稔りが無いのを見てました。今は品種改良されそんな事は目
にしませんね。

収穫された水田です、来館者用に現在も中山久蔵に感謝しながら作ってるのでしょうね。

中山久蔵の碑です。

水田から駅逓所です。夏は蓮の花で奇麗でしょうね。

驚きでした、ここにはクラーク博士の足跡も有りました。
クラーク博士が北海道大学から帰国の途中旧島松駅逓所に立ち寄り、学生と最後のお別れをした地でした。
この地で学生に『青年よ大志をいだけ』と言う名言の舞台だったのです。 クラーク記念の碑。

この言葉に新説も有りましたよ、『青年よこの老人のように大志をいだけ』老人の言葉が入る。
島松駅逓所に滞在し、中山久蔵に逢う。寒冷地稲作に努力する姿を見て中山さんのように努力しなさい
と言ったのではないかと言う説です。 説明板が有りました。

クラーク博士は北海道畜産の指導、中山久蔵は寒冷地稲作に努力され現在の北海道の基礎と成った
功労者ですね。
それがこの旧島松駅逓所で一緒に成ってるとは驚きでした。
場所です。上が札幌下が千歳に成ります。
写真は晩秋のセピア色ですね、来年開館の新緑の季節に訪問したいと思います。
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- 2013/11/25(月) 11:34:51|
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昨日札幌市の平地に初雪が降りました、平年より11日遅いそうです。
今朝は手稲山も白く雪化粧です、いよいよです、長い冬どう過ごしましょうか。
手稲山のいろんな姿、後で報告しますね。
道東の旅で、別海町、
旧奥行臼駅逓所を見学、Kさんから長時間に渡り詳しく説明を受けました。
その時、明治の初期には駅逓所のような設備が北海道には600程有ったと聞きました。
札幌近郊にも有るはずと、調べて見ました、有りましたよ、札幌市と定山渓のほぼ中間の簾舞集落
に、札幌市指定有形文化財として保存、無料公開されてました。簾舞(みすまい)
場所です。 国道230号から豊平川側に入ります、分かりずらい。
簾舞通行屋、旧黒岩家住宅です。通行屋も奥行臼駅逓所と役目はほぼ一緒のようです。
ここでは、札幌と定山渓の引き継ぎ所だったのでしょうね。
宿泊と人馬継ぎ立てを行い、早馬、早船が用意されて、番人及び人夫が常駐してたそうです。

通行屋と通行屋の間には、小休所の小屋が用意されてたそうです。
札幌地区では、三樽別(現手稲区富岡)、厚別、篠路です、札幌市以外のブログ訪問者には地理的
に不明と思いますが、全て札幌市の郊外に位置してます。

緑地公園として整備されてました。
簾舞通行屋は明治7年頃は休み所だったそうです、明治18年では簾舞休泊所に成り、明治41年に
通行屋の名称が用いられるように成ってます。歴史が感じられます。

明治末期に成ると山火事が多く成り、対策として簾舞では、大正11年に火防組合を組織し集落
に、火の見櫓を設立、当時のお金で41円30銭で釣り鐘を取り付けた、火事や水害に打ち鳴らしたそうです。

井戸が保存されてました。
駅逓所と通行屋の違いですが、地方により呼び方が違ったと言う考えも有りますが。調べてみると
郵便物も、取り扱う所が駅逓所と言うのが正解のように思いますが。
本州の宿場町と同じですね、地方に出る事は大変な時代のようです、想像が出来ます。

建物の中です、私の故郷を思い出す物ばかり、この通行屋で使ってたのでは無く、この簾舞集落
の歴史を集め見て貰ってるのですね。良いですね。雑然と置かれてる、宝物を探す気持ちでこれも
アイデアかな。東北遠野市の
千葉家を思い出しました。

馬の作業風景、こんな感じでした、私の実家も一頭居ました。昭和初期。

ラジオと蓄音機です、右のラジオ私が社会人一年生で初めて買った物に似てる。

ミシンです、旧奥行臼にも有りました、ハッピーミシンでしたね。

建物は板壁、昔は何処もこんな風景でした、学校も。

稲の脱穀機械です、機械と言っても足踏みで回転させ脱穀します、足踏みの所は手伝った事があります。

台所風景です、昔の北海道はストーブが多かったと思いますが。

明治4年頃のこの地方の風景です、開墾の風景と思いますが。

やはりここにも熊さん居ました、熊との戦いの伝説がこの地方にはいろいろ有るそうです。

このような設備を見学すると、本州と違いわずか100数拾年前の北海道の歴史です。
先人の苦労を想像すると同時に、北海道の急激な時代の変化を意識しますね。
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- 2013/11/09(土) 09:39:03|
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中標津から別海町に向かう。
以前札幌市図書館で、北海道の古い歴史書を見てると別海町に駅逓所保存の記事を見る。
明治の開拓期に、この地に駅、不思議に思ってました。駅逓所の意味を理解してませんでした。
道東の旅で是非、寄って見たい所でした。
カーナビで到着した場所は、町役場でした。広い駐車場と環境の整備された立派な役場に入る。
受付に話して見る。事務所の応接に案内され、職員を紹介されました。
地図をいただき、詳しく説明を受けました、ここから約20㎞厚床方面に走る事が分かりました。
受付の女性、説明された職員、事務所の雰囲気とても気持ち良かったです、ありがとう。
駅逓所とは、交通不便な地に駅舎と人馬を備えて、継ぎ立てと宿泊、物の輸送に便宜を図ってた
施設だったのですね。中仙道の歩き旅で良く見た方法とまったく同じでした。
北海道にも、有ったのですね。 600を越える駅逓所が有ったそうですよ。
場所です。
旧奥行臼駅逓所全景です。明治43年に根室方面と別海方面の中間で交通の重要な役割として開設されたそうです。
根釧原野の小さな集落の有る所に、位置してました。

玄関です。左に管理されてる事務所が有ります。入場無料。
事務員の K 女史に説明を受けました。非常に歴史に詳しい方で駅逓所を勉強してる方と感じました。
別海町を知って欲しいと言う熱意が伝わりました。長時間に渡り一人じめの説明ラッキーでした。

ここの、駅逓所は山崎藤次郎氏が取扱人となり、貴重な駅逓だったそうです。
山崎氏は30歳の時新潟から根室に入植しましたが、ここ奥行臼は将来牧畜業が発展する考えで、奥行臼
に、入植し広大な土地で、牧畜業、薪炭業を営みながら明治43年に駅逓所取扱人と成りました。
馬小屋、物置です。今も古い農機具が保存されてるそうですよ。
私は説明を受けながら、東北の遠野市で見学した、
南部千葉家の豪農を思い出してました。(クリック、リンク)

説明板です。

茶の間と仏間です。

居間と台所です。 見える物全部宝物に見えます。

非常に珍しい当時の乾電池とフキン掛けです、乾電池は日本電業株式会社と有りました。
フキン掛けは、手作りでしょうね、まだ現役ですよ。

これも非常に貴重なビン容器ですが、何に使うか忘れてしまいました。サクラマークが入ってます。
古い物に逢うと興奮する癖が又出ましたね、メモするべきですね。

冷蔵会社の冷蔵庫分布図です。良く見ると当時の南樺太、朝鮮半島、台湾、北方四島が日本領土
時代表示の地図でした。(白く表示されてます)

上記の地図の全図ですが写真では見づらく申し分け有りませんが、しばらく眺めてました。

私たち年代には、懐かしい台所用品ですね。

四季飲食注意の書が。 『きくな』と『からし』 『かずのこ』と『くまのい』
同食すれば命に係る。 『かに』と『氷水』同食すれば腹痛む等現在でも参考に成るような事も。

素晴らしい作りの傘見せていただきました。 山崎家の豊かな生活が想像出来ます。

大正末期の駅逓所の風景です。子供の着物姿懐かしいですね。

畜音器です。小学低学年時代手回しの蓄音器覚えてますよ。

四文字熟語の書ですが、左端の字分かりますか、親孝行の『孝』の字ですが逆字ですね、
意味が有るのでしょうが、私には分かりません。

私には珍しいミシンのハッピーです。調べて見ますと戦争中は軍需物資を製作する会社でしたが
終戦後、ミシン製造に事業転換し、現在は海外にも進出しコンピューター制御の刺繍機で有名な会社のようです。

山崎藤次郎氏に東条英機からの感謝状と、優良種馬畜産改良の功績で表彰も受けてました。

大正に入り、2階に客室が増設され、現在の姿は駅逓全盛期を現在に伝えてます。
昭和5年に廃止されましたが、子孫が守って来たのですね。
来年から、5年を掛けて全面補修するそうです。その間休館ですね。良い時訪問しました。
使える物は利用し、あまり金ピカにしないで欲しいですね。
5年後元気でしたらもう一度訪問したい気持ちです。
K さんから、近くに廃線に成った奥行臼駅が町指定文化財として保存されてる事を知らせて貰いました。
標津線の駅で、中標津起点とし36㎞の鉄道だったようです。開業昭和8年で廃止が平成元年。
別海村営軌道の乗り換え駅でも有り、別海町上風連までつながってたそうです。
この地方の重要な拠点だった事が分かりますね。
奥行臼駅です。

説明板が有りました。

運賃表です。昔は何処もこんな感じでしたね。

事務所には、金庫等が見え駅員が居そうな錯覚をします。ホームです。
前後の駅は、別海、厚床と有ります。

線路風景。ローカル列車が来そうな雰囲気です。

『奥行臼』地名ですがアイヌ語由来でした。 『ウコイキ。ウス』(戦いの有ったところ)
の意で、この地で根室ポロモシリのアイヌと、厚岸のアイヌが戦いをしたところが由来に成ってるそうです。
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- 2013/09/30(月) 10:26:06|
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